錬金術

 毎日新聞の映画評のコーナーは辛口だ。なんといっても、まだ映画を褒めているところを一度もみたことがない(ほめてます)。その毒牙(?)にかかれば、『アイアムレジェンド』はただのゾンビ映画、『スウィニートッド』は『シザーハンズ』がまぐれだったことを確認する映画ということになり、吉永さゆりはその変わらぬ輝きにもかかわらずまだ一回もまともな映画にでていない薄幸の女優ということになる。どんなに観たい待望の映画であろうと、この欄をチェックすると毎度観にいきたくなくなる、げに家計にやさしい映画時評である。その決然たる姿勢には敬意を表したい。
 毎日新聞ついでに、文芸評論コーナーにも触れておかねばなるまい。そこは、川村何某という文芸評論家が、毎回新作小説をメッタギリにしては文学の死を嘆くという趣向のコーナー、あるいは路傍。この方、最近流行のケイタイ小説が大変お嫌いのようで、そんな低俗なものは読んだことがない、と断言する。まあ、カラタニコージン大先生が文学の死を宣言してしばらく経つというのに、純文学なるものの生存を雪山遭難者の帰還を願うような心境で信じていること自体、この人かなりの天然(記念物)であると確信する。とはいえ、純文学の生存を信じていようと、ケイタイ小説が嫌いだろうと、評論する上では関係ない。まな板の上の素材をきれいに切り分け、おいしく料理できればよいのである。
 で、この文芸評論家は、ある人の作品をケイタイ小説的だと評する。どうもケイタイ小説のように平々凡々な日常を平々凡々に綴っている、という意味らしい。素材も手際も平凡だというわけだ。読んだことないのにどうして知っているのだろう、と首を傾げながら、それでも大御所のおっしゃることなので、なにか深遠なエピファニー*1でも待ち受けているのだろうと思い読み進める。で、あれよあれよと料理完了。その小説はケイタイ小説の形式を使って書かれていながら、ケイタイ小説ファンの心など露知らず、物語の進展の中でそのお約束を裏切ってしまう「反ケイタイ小説」なのだそうだ。おお、鮮やか、と拍手喝采。ケイタイ小説を読んだことないのに、ケイタイ小説の特徴を的確に要約し、かつそれに抗う反ケイタイ小説の可能性まで射程に入れてしまう。作ったことのない料理だって、何でも感覚に委ねて作れてしまう。ミシェランガイドなどくそくらえ。文芸評論家というのは、げに凄まじい職業なのだ。なのに、「芸能デスク」と同じくらいよくわからないポジションに甘んじているのはなぜだろう。はて。

*1:嗤っちゃだめ