専門知と世間知

 1週間ぐらい前の「論壇早読み斜め読み」で、蛸壺化した専門知と一般の人たちとの間を橋渡しする可能性を探るという主旨の下、いくつかの論文の短評が並列されていた。なかでも興味深かったのが、1970年代アメリカにおいて就職難に直面した倫理学が、生命倫理などのやや汎用性の高い応用分野を派生させた、という件。記事は、そこから発展して、現在のオーバードクターたちの就職難の現状に議論をひきつけ、専門知と世間知とを結びつける役割を彼らに担わせてはどうだろう、とささやかに提案する。*1
 無意味なものこそ必要なのだ、とか、無意味なことをやる余裕のある社会こそ健全な文明社会だ、という開き直りを決め込むか。それとも、無意味なことを延々と繰り返すよりは、マイノリティの解放運動などの社会運動に直接関係のあることをやりましょう、と世間に思いっきり擦り寄るか。両者を対立させたり、二者択一を迫るよりも、この記事のように相互補完的に扱ったほうが生産的でいい。まあ、いうは易し。専門知にどっぷり浸ったオーバードクターたちの中に、(自らも含めて)そういう人材が果たしているかどうかは別として。それ以前に、専門知と世間知の橋渡しを専門家のみならず世間が求めているかどうか。まあ需要は絶無ではないにしろ、あくまでそういうのはニッチ産業だと思う。

*1:スピヴァクの講演は、ちょっと違うんでないの、と思った。