大地震

 チョイ悪先生と嫁が懇意にしていただいている同僚の先生を招いてちょっと遅い新年会。ワインをパカパカ空けながら、豚肉のブラッサート、フィレンツェ風トリッパ、カルパッチョなどなど。例によって大学闘争、安保闘争。あるいは大昔に留学したとき(カリフォルニア)、『プレイボーイ』を買いにいったら、店員に軽蔑されたお話。その気持ち、よーくわかるわあ。
 
 

 74年。スカパーにて。チャールトン・ヘストンものを最近よくやっているような気がする。地震・火事・洪水と、あとは雷と親父があれば怖いものなしのラインナップで畳み掛ける。
 パニック映画によくありがちな群像映画的なつくりで、全く関係のない人々・プロットが地震を契機につながっていく。カタストロフィの比較対象が広島・長崎の原爆投下というのが印象的。そういえば、映像も原爆投下後の惨状を意識しているような気がする。
 あとは、非常事態下の権力の描き方とか。公的権力を代表していると見せかけて、私怨を晴らそうとする州兵は、特に魅力的な人物。日常生活においては、ホモセクシャルだとからかわれては逃げ出す男が、地震発生後、州兵として駆り出されるや、マッチョに普段の恨みを晴らし、あまりにもベタでマッチョな方法でお気に入りの女性をじぶんのものにしようとする。そういう公的な権力を私的に乱用する州兵をやっつけるのが、これまた職務停止中の警官で、何の気兼ねもなくあっさり州兵を撃ち殺してしまったり。この警官、市民に強奪を指示したり、クルマを銃で脅して強奪しようとしたり、まるで法にとらわれない。彼を突き動かしているのは、不文律の道徳というか正義で、法外な状況で内なる不文律の法に従うという図式は、この時代のハリウッド映画でよく見かけるような気がする。
 地震予知が科学として真剣に研究されているあたりに、まあ時代を感じる。
 ああ、あと映画中映画というか、ロケーションがハリウッドだったり、映画に端役で出る女優の卵が出てきたり、映画館で『ゴッド・ファーザー』が上映されている最中に地震が起こったり、メタフィクション的な仕掛けがあって、観客にリアルさを喚起するためなんだろうなあ、と思ったりもした。
 ちょっと終わり方が唐突。こんな終わり方でいいのか。あるいは、他のヴァージョンで裏エンディングが見れます、みたいな煽りに利用されているのか。