4-2-3-1

 プレミアを深夜に2試合連続でみたせいで、またもや遅い起床。掃除。マンCvsトッテナムを観て寝る。
 マンUアーセナルも疲れがピークに達しているようで、今が辛抱のしどころ。チェルシーリヴァプールがここにきて充実一途、上げ潮ムード。リーグの覇権争いは急転混沌模様。今週末には、4強の直接対決が2試合組まれている。ひとまずここが正念場だろう。
 CLに目を向けると、イングランド勢が8強の半分を占める。リヴァプールvsアーセナルという潰しあいも見所だが、昨年の惨殺劇のトラウマを払拭すべく死に物狂いでマンUに挑んでくるであろうローマも必見。他の試合は、ほぼ順当にバルサチェルシーで決まりだと思う一方で、案外ジーコ率いるフェネルバフチェは好調で勢いがあるし、何よりも指揮官の采配がズバズバ決まる神がかり的な状態なので、ダークホースになるかもしれない。ジーコってこんなに凄い監督だったろうか、とか思いながら、こんな本を読んでみた。

4‐2‐3‐1―サッカーを戦術から理解する (光文社新書)

4‐2‐3‐1―サッカーを戦術から理解する (光文社新書)

 サッカージャーナリストによる戦術論。サッカーにおける戦術、およびそれを実現するための布陣の流行り廃りについて、事細かに分析している。出てくるのはほとんど監督。選手に関する考察は全くないといっていい。
 サッカーを観戦する立場には様々ある。選手になりきってパスコースやシュートコースを探すのもいいし、サポーターやファンになって選手の一挙手一投足に一喜一憂するのもいい。どの立場を採るのも自由だが、本書が薦めるのは監督の立場。ピッチを俯瞰し、相手陣の急所を洗い出し、自チームの問題点を修正する。戦局に応じて、切るべきカードを勘案し、選手交代に監督の意志を込める。テレビ観戦だと、さすがにピッチを俯瞰することはできないので、必然的にボールの行方を見守ることになるわけだが、少なくとも監督の立場を想像しながら、テレビ画面から排除されているピッチの状況を補完しながら観戦することは可能だろう。以下、本書が素描する現代サッカーについて、私見も交えながら書いてみる。
 まず、サイド攻撃重視の傾向が強いということ。かつてはよりゴールに近い中央に対する攻撃を補完する機能しかもっていなかったサイド攻撃だが、中盤のプレッシングが苛烈さを増すにつれ、より有能な選手がサイドに活路を見出すようになった。最近のサイド攻撃は、かなりの人数をかける手の込んだものになりつつある。サイドバックサイドハーフは、もちろんのこと、それに加えて、FWやセンターハーフの選手まで絡んでくる。サイド攻撃の意図も変わった。かつてのサイド攻撃は、サイドライン沿いを往復しながら、クロスを上げるのが目的だったが、今では外から内へと切り込むことでバイタルエリアに集まるセンターバックを引き剥がし、ペナルティエリア内にスペースを創るのが主な目的になっている。
 サイド攻撃は、攻防一体の戦術でもある。サイドが技術の粋を集めた現代サッカーの主戦場であるなら、サイドを掌握した側が勝利に近づく。そのため、サイドの選手には、できるだけ相手ゴールに近いポジションをキープすることが求められる。サイドバックがほとんどサイドハーフの位置をキープし、サイドハーフがウィングのようなポジションにいることで、相手の攻撃は始点の段階で摘み取られる。サイドこそが主戦場であるがゆえに、サイドの選手は単に攻撃するだけではなく、攻撃を続けるための守備を求められるというわけだ。
 しかし、サイドから中へと切り込んで中央を抉る「矛」とサイドにおいて高い位置をキープし、相手の攻撃を未然に防ぐ「盾」は矛盾する。サイドから内へと切り込んでボールを奪われた瞬間、サイドはがら空きになる。誰かがそこをカバーする必要がある*1。そのため、現代サッカーにはオシムのいうポリヴァレントな能力が求められる。
 ポリヴァレントというと、試合ごとに複数のポジションをこなすことができる何でも屋的な能力のように考える向きもあるが、ポリヴァレントの勘所は、試合の流れの中で複数のポジションを補い合い、チームの布陣の短所を消しながら、攻撃の継続を図る能力に集約できる。サイドの選手がサイドしかできない、中央の選手が中央しかできない、というのであれば、戦況の変化に対応できない。ポリヴァレントな能力は、刻々と変化する戦況に応じて、サイドが空いていればサイドを埋め、中央が空いてれば中央を埋め、急所を攻撃の起点へと変えるためにある。そしてそれは、サイドを攻防の要と位置づける現代サッカーにおいて、最も重要な能力となる。いわゆる左サイドハーフもできるし、センターハーフもできる、というように、ポジションを分割して思考するのではなく、試合の流れの中で自分がどこにいて、チーム全体のどこが弱いか、相手のどこが弱いか、というようなことを瞬時に自分で判断して、その時々に応じた役割を自らに課さなければならない。試合開始時のポジションは、所詮便宜的なものに過ぎない。ポジションは与えられるものではない。自分で創るものだ。オシムは、サイド攻撃の重要性を説き、前線における守備を徹底させ、ポリヴァレントな思考を選手に植え付け、現代サッカーの先端を確かに示した。
 ただし、オシムのサッカーが見せたのは、可能性よりも限界だった。オシムの戦術は、先端であっても、その布陣は実にクラシカルなものだった。端的にいうなら、オシムはサイドに選手を一人づつしか置かなかった。これでは、サイド攻撃重視の現代サッカーを実現するには、サイドの選手に対して相当な負担を強いることになる。戦術という目的とそれを実現する手段としての布陣が、噛みあっていなかった。著者は、オシムを批判しつつも、サイドの選手が育っていない日本のサッカー界を考慮し、酌量の余地を残す。中村や遠藤、福西、引退した中田、稲本、小野といった日本を代表する中盤のタレントたちのほとんどは、中央を主戦場とする。従って、ベストチームを作ろうとすると、どうしても中央にタレントを集めざるをえない。対して、世界に通用するサイドを崩せるようなタレントは、日本にはほとんど育っていない。アジアカップで露呈したパスはまわせるが崩せない日本代表の行き詰まりは、中央にタレントを固める旧式のサッカーを展開したジーコのそれと重なるものがあった。それはひとえに、Jリーグを始めとする中盤重視の日本サッカーの伝統が、世界のサッカーの趨勢から乖離していることを示している。
 だからこそ、著者はルマン所属の松井のような「異端児」に期待をかける。サイドを突破できる上に、中央に切り込むこともできるし、パスも出せれば、自らゴールを決める力もある。前線における守備も進歩した。著者は松井のような人材を育てることの必要性を繰り返し説いている。
 布陣は戦術を実現するための手段に過ぎない。けれども、適切な布陣なくして戦術の実現はない。そして、適切な布陣を構築するには、そのヴィジョンに符合する人材を育てる必要がある。果たして、岡田ジャパンに、川渕チェアマンにそうしたヴィジョンはあるか。岡田丸は、どうも舵を取ることなく、直進しそうな勢いだが、果たしてどうだろう。それが岡田監督のヴィジョンであり、現代サッカーの常識を覆すものであるなら、それはそれでおもしろいのかもしれない、とも思う。
  
 

*1:バルサロナウジーニョを念頭において。