だれもが馬場を愛していた

 煮物は三日目が旨い。

オーケンの散歩マン旅マン (新潮文庫)

オーケンの散歩マン旅マン (新潮文庫)

 旅行記と全国ツアーの記録。例によって擬声語連発のオーケンワールド。どれも秀逸だが、故ジャイアント馬場の記憶を面白おかしく書いたものがとりわけよい。
 2、3度馬場を実際に見にいったことがあるが、まさに異形の人で、バスからヌボっと出てきたときは思わずそばに立っている電柱と見比べたものだ。強いとか弱いとかを超越したオーラがある人で、試合中もよく馬場を茶化す軽口が客席から投げられるものの、悪意を込めたり馬鹿にしたりする野次はなかった。スローモーションで繰り出す脳天唐竹割りに、明らかに相手のほうがあたりに来ている16文キック、やったらたぶんどこか痛めるので封印された32文ドロップキック、やしの木が自ら実を割っているようにみえるココナッツクラッシュ、相手より馬場さんの体のほうが心配になる蛙落とし。まあなんだか不思議な人だった。
 こんなことまで思い出した。テレビ中継の話になるが、あれは90年代中盤くらいだったか、年末恒例の世界最強タッグのリーグ戦で、「人間魚雷」テリー・ゴディと「殺人医師」スティーヴ・ウィリアムスのコンビ、いわゆる「殺人魚雷コンビ」と当たった馬場さん。馬場さんのパートナーが誰だったか思い出せないが、ハンセンだっただろうか。試合も佳境に差し掛かって、孤立無援の馬場さんに屈強な外人レスラーが襲い掛かる。ゴディが前屈した馬場さんの頭をむんずとつかんで両足の間に挟み、テーズ直伝パワーボムの体勢に入ったところで、ウィリアムスが目配せ、アシストの気配を見せる。いわゆる合体パワーボムの体勢だ。
 当時、馬場さんは依然として一線級のレスラーと試合をこなしていたものの、明らかに衰えが目立ち始めていた。レスラーとして過渡期を迎えていた。事実、それからほどなくして、ラッシャー木村らと前座の試合を務めることが多くなり、馬場さんは一線を退く。
 そんな過渡期の馬場さんがあの屈強な外人レスラーのフィニッシュホールドを耐えられるのか。試合云々ではなく、命にかかわる。馬場さんの下を向いた体が、天井に向かって一気に反り返り、上昇が止まる刹那、客席は歓声を一瞬上げ、息をのみ、水を打ったように静まり返る。当時はまだ福澤 "ジャストミート" 朗ではなく、若林健治アナだったと思うが、実況席の不安は言霊となってブラウン管のこちら側に伝わってきた。若林は力の限り絶叫した。「馬場さんあぶなあーい」。
 果たして勝敗の行方を左右するレスラー・ジャイアント馬場の危機を演出したのか、それとも一市民・馬場昌平の生命の危機を憂慮して叫んだのか。虚実皮膜、絶叫の真相は、若林の胸のうちに秘匿されている。果てしなく後者の公算が高いのはいうまでもない。
 いずれにしてもウィリアムスが空気を読めるレスラーでよかった。通常であれば、天井の照明に向かって高々と舞う相手の頭を捕らえて、急降下にさらなる重力を与え、マットにたたきつけるというのが彼の役回りだった。だが、このときばかりはウィリアムスは急降下していく馬場さんの頭を手のひらで支え、マットにつかないよう必死に守った。ウィリアムスはパートナーではなく、馬場さんをアシストしたわけだ。ゴディの方もいつもはマットと水平になるように高々と相手を持ち上げるが、このときはせいぜいベルトラインまでだったように思う。リング上で馬場さんを中心に出来上がった人命救助の三幅対に、誰もが安堵した。こうして馬場さんは生還を果たした。
 今頃、ゴディは、あの世でも馬場さんのことを気遣っているだろうか。