雷・家事・親分

 インターネット接続の不調と私の怠惰などで、更新が滞った。人畜無害な日常をメモ程度に記しておく。

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 カップヌードルは諸般の事情で「BIG」にしか触手が伸びないのだが、このたび新発売の「ガーリック塩味カルビ」はなかなかよい。かつての「ジャーマンソーセージ」のように市場で淘汰されることなく、こいつにはサバイブしてもらいたい。

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 ある種の修学旅行より嫁が戻ってきてから10日ほど経つ。上目遣いで遇されるベテランの域に達していてもおかしくはない年月が彼女の周囲には流れたが、彼女自身はいうと泰然自若、悠久不変、毎年思いもよらぬ失敗譚を土産に、毎度堂々と三和土を叩く。
 今回も期待、あるいは鬼胎に違わぬ破天荒な逸話が聞けるかと思いきや、門限破りをした学生に雷を落としたという、至極まともな、教師らしいエピソードを滔々と語りだした(ああ残念)。語り口から察するによほど大規模な放電だったようで、常日頃遠雷の接近に背中を細波立てては避難を余儀なくされている身として、同情を禁じえない。しかしながら、全身全霊を傾けて放電しながらも、同時に、雷に撃たれた学生の心的外傷の程度を想像し、次の朝、どのようにフォローすべきかと、思いを巡らせるあたり、雷様、もとい教師という職業人は、なんと屈折した生き物なのだろう、と感嘆したりしなかったり。私が同じ状況に遭遇したならば、おそらく、極めて原始的な呪詛が腹の中でくだをまいているに違いない。グラウンド50周とか水飲むなとか朽ち果てろとか。愛なんぞ一片もない。
 とすると嫁がまるで教師の鑑のように聞こえるが、なんのことはない。私が朝起きるといつもテーブルの上にはプリンの抜け殻が転がっている。中身は嫁の腹の中。なかなかプリンを恵んでもらえない。いまどきの教師は学生に教えないのか、お裾分けとか助け合いとか隣組とか。プリン寄越せ。

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 先日、粗大ごみ処理業者にごみの回収を依頼した。当初の見積もりは甘かったようで、押入れや物置から引っ張り出してみると、たちまち玄関先はごみの山になった。テレビ2台、コンポ2台、書類棚、なべ、フライパン、パソコン、巨大プリンタ、コタツ布団、布団2セット、などなど。よくもこれほど詰まっていたものだ、と我が家のキャパシティの可能性に根拠のない信頼を置きなおす。が、一方で、われわれの管理能力に対する信頼は風前の灯だ。「計画性」や「家政」という字を、ノート十冊分ほど練習せねばなるまい。

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 数日置きに、保険外交員を招き、話を聞いている。
 介護、老後、けが・病気、生命という4つの次元のどれに比重を置くか、というのが保険契約の難問なのだそうだ。
 ふむふむと話を聞いていると、こちらが説明を依頼したファミリータイプの保険を引っ込めて、個人契約の保険やら積み立てやら生命保険の話を小出しに忍ばせてくる。「逆に」という逆接の接続詞を「あらあら」とか「おやおや」ぐらいの軽さで連発するのも気になるが、それ以上に「本当は保険の外交員がこんなことをいってはいけないんですけどね」と謙遜してるのか矜持を滲ませているのかよくわからない撒きビシのような科白が引っかかる。仮にも他人のレトリックや無為に潜む作為の剔抉にぎこちなくとも勤しんでいる夫婦に対して、それは不用意ではないか。
 とまれ、こういう勧誘の類は昔から傾聴するのがなぜだか好きで、大学時代には、社労士の通信講座に選抜されました、というような内容の電話に2時間付き合ったことがある。選抜されたのになんで50万もの大金を投じなければならないのか、というアルカトラスの塀ほど乗り越え困難な壁を前にして、彼らはそれを質問する隙を奪うことで予め壁などなかったことにする。おそらく目の前に原稿を置いて何度も繰り返し読み上げているのだろう、目にも留まらぬ、いや耳にも入らぬ速さで話が展開していく。日本語ネイティヴスピーカーの臨界点を見た思いがした。たまに「でも高いですね」とか「ああ」とか「うん」と差し挟みながら、一時間半ほど経った所で、親分が出てくる。「ここで申し込まなかったらもう二度と申し込めないよ、あんた」うんぬんかんぬん。これまでの低姿勢とは打って変わって、居丈高にごり押ししてくる。最後に「いいです」と告げると、何も返事はなく、がちゃんと切れる。ぶるぶる震えながらも、この間に平均してレベルが5ほど成長したパーティの雄姿を眺めていたあの秋が懐かしい。
 話を戻す。さて本音をいえば、保険などあまり興味はない。「カフェイン抜きのコーヒー」(ジジェク)なんて欲しくはない。が、そういうわけにもいかないのが人の常。今日の夕飯程度の未来予想図しか持ち合わせていない暗中模索の私には、がん・傷害保険程度の常夜灯はあったほうがいいのかもしれない。検討中。