人生設計

 友人と保険の件で電話。電話の後、保険というものは、リスクヘッジや転ばぬ先の杖といった「恐怖」に対する対応というより、大げさかもしれないが人生全体の設計なのだと痛感したり。
 あちらのように、梁や筋交いを頑丈に張り巡らせ、大黒柱を軸に堅牢な武家屋敷を構えるのも一案。台風だろうと地震だろうとびくともしない。火の車となって炎上しなければ、これほど心強い備えもない。我が家の方はといえば、茅葺の屋根で雨露をしのぐ竪穴式住居だろうか。台風がやってきたときは、地中深く潜り込んで、地下に蓄えた食料で糊口を凌ぐ。火事の心配はあまりいらないかもしれないが、大地震がやってきたら逃げ場はない。そのときは潔く地中に埋まるか、着の身着のまま外へと駆け出し、サバイバル生活に身を投じることになる。
 地震が来るか、雷が来るか、火事になるか、欠陥住宅で倒壊するか、何もおきないのか、それはわからない。何に対して備えるのか、あるいは何に対して備えないのか、という問いに正解はない。だから当座、無事に過ごしている間は、比重の対象や軽重の差異はあれど、リスクヘッジの観点からいえば、それほど違いはないといってもいい。
 しかし、どのような家を設計するのか、という観点においては、あちらと我が家とではまるで違うような気がする。つまり、言葉の適用が正確ではないかもしれないが、我が家が「家庭」のみを志向しているのに対して、あちらはその中に「家族」をも含みうる設計を目指しているということだ。あまり意識はしていなかったが、これは存外決定的な違いであるような気がしてならない。いや、両者の違いを意識していなかった、というところではなく、我が家の人生設計に、「家族」という視点が欠けている、という事実に驚いた。確かに、今、あるいは将来、この空間に、わが子が生活している、という状況があまり想像できない。こういうものは想像するのではなく、現実に存在して初めて対処しうるものだということは、頭ではわかる。しかし同時に、頭の中で数え上げることのできるものに対する「恐怖」ではなく、対象の不確かな「不安」が人生設計の根底にあることを直感した。極言するならば、これは人生設計や家族計画の欠如とも言い換えられるかもしれない。
 大澤真幸の師にあたる見田宗介は、疎外論に関して、「〜からの疎外」に先行する「〜への疎外」という疎外の前提条件を提出している。喩えるならば、田村亮子は、「ママでも金」という到達目標、おおげさにいえば「世界」を設定し、それ以外の成果を除外してオリンピックに臨んだからこそ、銅メダルでは喜べない、というあたりでどうだろうか。敷衍すれば、審判にハイキックを食らわせたテコンドーの選手も、銅メダルを投げ捨てて剥奪されたレスリングの選手も、「世界チャンピオン」への疎外を予め自分に課している、あるいは誰かから課されているからこそ、その金メダルの領域から疎外されたことに疎外感を感じ、暴挙に出た、と理解することができる。
 我が家は「〜への疎外」を欠いている。だから、おそらく「〜からの疎外」に苦しむこともない。我が家には疎外が存在しない。だから、苦しむとすれば、疎外自体から疎外されていることに苦しむことになるだろう。って何の話だ。
 つらつらと書いているうちに、いつのまにか、大言壮語な事態になった。そこまで大げさな話ではない。あえて言い訳を探せば、焼酎のせい、より具体的には木挽のせい。ここまで書いて消すのもなんなので、とりあえずこのままで。