あなたの、そして私の夢が走っています

 ここ一ヶ月ほどの間に読んだ小説を振り返ると、無人島における逆ハーレム状態を描いた『東京島*1もかなりよかったが、読まねばと思いつつも先延ばしになっていた『優駿〈下〉 (新潮文庫)』『優駿〈上〉 (新潮文庫)』がやっぱり凄かった。オラシオン祈り)と名づけられた駿馬が生まれてからダービーを勝ちとるまでの約3年に焦点を合わせて、馬主とその娘、騎手、調教師、生産者、新聞記者、馬主の秘書や運転手などが織りなす人間模様をこれでもかという濃密さで描いている。JRAを始めとする関係者に対する取材の綿密さは、確かな筆力に裏打ちされた筆致とあとがきから十分に伺える*2*3けれどもそうしたありがたい知識以上に、宮本輝の筆圧のすさまじさに気圧される。こりゃまあ、実生活において競馬場という名の遊園地で己の返り血を浴びるだけ浴びた人間にしか書けないわな、と平伏する。*4
 宮本輝が苦手な人は、おそらくあの情念を情念で洗うようなおもーい世界についていけないのだろう、と想像する。『優駿』でも例に漏れず、誰もが強さよりは弱さ、長所よりは欠点に押しつぶされていて、超然としたところがまるでなく、それだからこそ全く抜け道のない、救いのない人間ドラマが展開される。大真面目なんだなあ、つまり。せまい袋小路に窮鼠がわんさと集まり、壁を齧るが埒開かず、互いの身体を齧りあう、みたいな。川三部作などはその典型だろう。『優駿』も基本線は同じだと思う。が、『優駿』がちょっと違うのは、袋小路の窮鼠の頭上に高速道路が一本通っているところだろう。
 壁に囲まれたネズミたちは頭上に通った高速道路を走る一頭の駿馬、オラシオンの超然としているようにみえる走りに壁の向こう側を幻視する。
 オラシオンが走るのは、物語の中に描かれるひとつひとつのレースにはとどまらない。物語の推進力そのものがオラシオンであり、窮鼠の「祈り」だとすらいえるかもしれない。というのも、物語の構造自体がオラシオンのレースの似姿となっているからだ。
 ゆったりとゲートを出て、道中ゆっくりと追走する。3コーナーから4コーナーにかけての「三分三厘」と呼ばれる勝負どころで一気に加速する。しかし、この加速は馬の勘違いに端を発する。オラシオンは、コーナーをゴールだと勘違いしている。騎手はそれを馬の並外れた能力だと勘違いする。コーナーを曲がりきってから迎える残りの直線は、身体能力や心肺能力を超えた気力でカバーする。騎手はそれに気づかない。
 馬主は自分を2000メートルしか持たない、つまり2400メートルのダービーを完走することの出来ない馬だと考えている。それでも、人生の4コーナーを回って、もう一花咲かそうと踏ん張る。生産牧場の長男は、日本一の牧場を目指して、後先考えず、突っ走る。馬主の秘書は、人生を演技しながら生きていると自己分析するが、最後に仮面を脱ぎ捨てて、必死に生きようと考え直す。
 オラシオンの「馬生」もそうだ。少し遅れて秋にデビューするも敗北、2戦目で勝利する。そこから連戦連勝、一気にクラシック路線にのる。皐月賞では、オラシオンの正体に気づいた鞍上のファインプレーで勝利するも、本番のダービーでは今までの疲れからかいつもの行きっぷりがない。最後はただ気力だけで走る。そして、読者も最後の最後に訪れる予測外のながーい審議を気力で乗り切る。よく似ている。
 オラシオンはかっこよく走っているように見えて、実は必死だ。登場人物たちは、その超然さに夢を託しながら、隠れた必死さにおいて自分たちの境遇を重ねていく。市井と競馬界はつながっている。人間の出産とオラシオンのそれとが重ねられる冒頭はあざとく映るかもしれないが、そのあざとさをここまで徹底すればむしろすがすがしい。
 夢と現実はよく似ている。ただ夢の方が少しだけ速い。って帯をつけたい、が、明らかにセンスが足りない。

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 [余禄]
 必死さがすっかりダサく映るようになった現代において、なかなか必死さをこれみよがしに描くのは難しいのではないかと思う。伊坂幸太郎の小説に出てくる市井の描写は華麗で洒脱で、人間くさくない。ま、伊坂がライトな日常を描くのは、彼が類まれなストーリーテラーだからだろう*5。軽快なテンポで走る物語に、宮本のようなおもーい人間模様は似つかわしくない。そもそも、ストーリテラーとしての宮本には疑問符がつく。
 と、わざわざ伊坂と宮本を並べたのは、伊坂がライトな群像小説を書きながらも、オラシオンのような「隠れた必死さモデル」を手放しているわけではない、ということをただいいたいから。
 『砂漠』では飄々としながらもかっこわるい必死さが垣間見える。地球を救う気満々の西嶋とかキックボクサーとか。でも、語り手はそういう熱さに感化されつつも、「なんてことは、まるでない」っていう奇跡の言葉で、閉店がらがら、引っ込めてしまうのだけど。
 『終末のフール』では、武田幸三をモデルとしたキックボクサーが必死さを背中で語る。饒舌でウィットに富んだキャラクターが多い伊坂作品にあって、ここまで寡黙な登場人物も珍しい。世界最期の日が来るというのに、対戦相手すらいないというのに、毎日に必死に黙々と最強を目指して鍛錬を積む。大津波に人々が飲まれていく終末の日に文字通りの高みの見物をするべく、日曜大工よろしくマンションの屋上に櫓を組み立てていくおじさんと比べると、両者の関係は水と油のようにも映る。けれど、自分に克つというストイックさと屋上屋を重ねる滑稽さは、どこか繋がっている。たぶん、生きることに対する必死さで。そして、終末を週末のように生きる肩肘張らない自然さで。必死さと自然体を矛盾なく両立させる伊坂は、凄い、と涙ながらにひとりごつ。なんてことはまるでない。
 

僕の小説って(中略)荒唐無稽だけど社会と接続しているつもりで書いています。(中略)真面目なことを真面目に伝えるのはフィクションの役割じゃないんで、荒唐無稽なもので覆って伝えたい。

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 佐藤友哉の鏡家シリーズの第一作(メフィスト賞受賞作)を読み始めたが、最初の20頁ぐらいの間、兄と妹がいちゃついていて、危うく投げるところだった。50頁以降、面白くなる。途中。

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 小説以外では、『大衆音楽史』が大衆音楽の航空写真たりえていて、とりわけよかった。

 

*1:無人島にもっていくCDとか考えるよりも、やっぱり本や紙、鉛筆をもっていく方が喫緊だと学んだ。

*2:しかし、例によって、少々強引な設定も目につく。たとえば、馬主の娘が死の床に臥している腹違いの弟にオラシオンの所有権を譲るくだり。カードを持ち歩くのが嫌いで、判子を持ち歩いている金持ちの娘などいるだろうか。むしろ持ち歩くのはクレジットカードだろう。まあ、いいか。

*3:ルドルフと岡部のエピソードとか社台の総帥とか、いろいろ元ネタを思い浮かべることもできる。もしかして、オラシオンの3角捲りのモデルはミスターシービーか。

*4:わたしはせいぜい医者に掛かる必要のない切り傷程度しか負ったことがない。なので、宮本のエッセイを読むにつけ、JRAに四肢を切り落とされ、オケラのダルマになったものには到底勝てん、と兜を脱ぐ。

*5:伊坂の原点、陽気なギャングシリーズを読んでいるところだが、伊坂らしさはやはりこういうスピード感というか疾走感だろうと思う。