二センチの明暗

 97年天皇賞(秋)において、17年ぶりの牝馬戴冠を果たしたエアグルーヴの快挙を皮切りに、近年ではスイープトウショウヘヴンリーロマンスダンスインザムードといった強豪牝馬の面々が、牡馬に混じって中長距離路線を賑わせてはたびたび栄冠に輝いてきた。トゥザヴィクトリーに至っては、狭い島嶼を飛び出して、世界最高賞金のレースに挑戦し、日本馬歴代最高の成績(二着)を残している*1。スピードと切れ味の勝負になる短距離路線ならいざ知らず、体力と根性が問われるクラシックディスタンスでは牝馬は牡馬にかなわない、という定説がまかり通っていた時代からすると、隔世の感がある。と同時に、ヒシアマゾンの代名詞ともいえた「男勝り」などという陳腐な形容も今や隔靴掻痒の感あり、蹄鉄の裏からひづめを掻くようなものかもしれない。一流牝馬はお飾りでも色物でもなく、れっきとした本命に値する。
 先日行われた天皇賞(秋)は、名牝2頭による畢生の叩き合いとなった。かたや昨年のダービー馬ウオッカ。今年の安田記念も制し、混合G1、2勝。鞍上には今年もリーディング首位の定位置を確保する当代きっての名手、武豊。対するダイワスカーレットは、昨年のクラシック牝馬二冠に加えて古馬相手のエリザベス女王杯も制している。年の掉尾を飾る有馬記念も含めて、未だ連を外したことのない優等生に跨るのは、笠松で撒いた種が大輪の花を咲かせた名手・安藤。
 牡馬陣の顔ぶれはやや寂しく、勢いなら今年のNHKマイルとダービーの変則2冠を制した俊英・ディープスカイとG3を連勝している上がり馬・ドリームジャーニー、実績ならメルボルンカップ2着が光るポップロックと昨年の菊花賞アサクサキングス、といったところが話題に上る程度。凱旋門賞で惨敗したメイショウサムソンの回避が、晩秋の寒風となって吹きすさぶ。
 

 レースはポンと飛び出したダイワスカーレットが直情径行、果敢に飛ばすのを、鞍上が機嫌を損ねないように宥めながら先行する展開になる。後続は帰巣する蟻の一群のごとく縷々と縦長に並んで推移を見守り、直線の攻防に備える。ウオッカディープスカイは好位追走、雌伏に徹し、ダイワスカーレットの首に鈴をつけんと雄飛する瞬間を待つ。前半の5ハロン標識を58秒7で通過し、展開の綾が付け入る隙も息の入る余地もない力勝負の様相が色濃くなる。
 府中のメルクマール、大欅の向こうからダイワスカーレットが姿を現すと、我先にと各馬急流の中に進んで身を投じ、馬群は一気に圧縮し始める。各馬位置取りの確保に忙しい。
 4角を回り、直線を向くと、ライバルたちが接近してくるのを十分に待ったダイワスカーレットが、残り400メートルあたりから二の足を使って一気に後続を引き離し始める。先行勢が軒並み青色吐息に喘ぎ後退する中、ダイワスカーレットは最内ラチ沿いを力強く伸びる。
 しかし、残り200メートルを切ったところで、ウオッカディープスカイが互いに馬体を併せ、切磋琢磨しながら内に切れ込みつつダイワスカーレットめがけて飛んでくる。さらにその内側から伏兵カンパニーが穴党の煩悩まみれの祈念に尻を押されてぐいぐい先頭に迫る。おまけに無欲の挑戦のはずがここにきて俄然欲が出てきたエアシェイディまでもが先頭争いに加わり、ゴール前は多士済々5頭がコンマ一秒の間にひしめく大混戦になる。さすがに穴党の呪詛に手を焼いてばてつつあったダイワスカーレットも、外から飛んでくるディープスカイウオッカ、そして自分の蹄音とが重なっていくにつれ、尻に火がつき気力を振り絞って再加速する。ディープスカイとの叩き合いを僅かに制して、外のウオッカが脚色よくゴールに飛び込む刹那、内のダイワスカーレットは土俵際の粘り腰で懸命に首を伸ばす。後者が僅かに態勢有利に映るが、ここまで僅差になると首の上げ下げの争いになり、予断を許さない。晴れ舞台でウィニングランの余韻を楽しむこともなく、両馬は暗渠を抜け検量室に戻る。同着との声も出る中、ダイワスカーレットが優勝馬の指定席に収まる。しかし長い写真判定の末、ウオッカに軍配が上がる。その差二センチ。2000メートル走って二センチ差*2
 勝ったのはウオッカとなったが、休養明け初戦にも拘らずレコード決着となった当レースを最初から最後まで引っ張ったダイワスカーレットの強さの印象度は他を圧している。息を入れる余裕をもてなかったのは、久々の影響か。対して好位にとりつきながら繰り出したウオッカの強烈な末脚は、彼女の成長の蹄跡を物語っている。3歳馬ディープスカイも、古馬戦線初挑戦ながら遜色のないところを見せた。いずれにしても、この三頭の勝負づけはまだ済んでいない。
 

 ターフの勝負を離れて血のドラマに目を移すと、ウオッカディープスカイを世に送り出し、群雄割拠のポスト・サンデーサイレンス争いで一歩先んじるアグネスタキオンの充実ぶりが目を惹く。突出した能力の片鱗を覗かせつつも脚部の怪我で早々に引退してしまったアグネスタキオンだが、余生は順風満帆のようだ。今後、産駒がデビューするディープインパクトとのサイアーライン争奪戦も見物となる。タニノギムレットは、その父ブライアンズタイムがそうだったように、時々ダイワスカーレットのような超大物を輩出する名種牡馬になりそうだ。
 しかし、問題がひとつ。日本のサイアーラインはサンデーサイレンスにすっかり淘汰されてしまい、良質の肌馬の多くにサンデーの息がかかっている*3ブライアンズタイムの血に期待、といいたいところだが、しかし、ブライアンズタイムサンデーサイレンスは近親なので、両者の子孫を掛け合わせるのは難しい。生産者はヘイルトゥリーズン系以外の肌馬を探さなくてはならない。流行の血筋を受け継ぐウオッカダイワスカーレットは、ターフの上での評価に比べると、肌馬としてはあまり重宝されないかもしれない。2頭の名牝にとって、2センチが明暗を分ける現役の世界よりも、競争能力を賦活する名血が搦め手ともなりうる余生の方が過酷なように映る。

*1:http://jra-van.jp/dubai2008/outline/lookback.html

*2:僅差の名勝負というと、記憶に残るところでは、96年スプリンターズステークスにおけるフラワーパークとエイシンワシントンの1センチ差、99年有馬記念グラスワンダースペシャルウィークの4センチ差。

*3:今年のサイアーランキングを見ると、サンデーサイレンス系はベスト10の半数を占めている。