序論

権力と抵抗―フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール

権力と抵抗―フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール

 構造主義的思考とは何か。
 まず、システムに人間を還元して主体を殺した、といわれなき批判を受けることもある構造主義を、「主体の否定」ではなく、ラカンに倣って「主体の理論」として捉える。そして、その前提を請けて、主体が取り込む対象としての権力と主体の内部で作用する「なにものか」とのあいだに切断を認める(「服従化された主体は主体に内面化された権力に依存している」)。
 特にふたつめの指摘は、権力と抵抗をめぐる問題の核心を衝いている。著者の見立てに拠れば、構造主義的思考は、権力と主体の関係を「権力の内面化によって実現される服従化」と「主体の脱中心的位置」によって理解しようとする。その際に、鍵となるのがフロイトラカンのメランコリー理論。
 

[フロイト]によれば、「超自我」は父の、あるいは良心の権威の内面化によって形成されている。第二に、もし自我の反省的システムが失われた対象の取り込みに由来するならば、取り込みの結果、この反省性は現実の対象とは独立して、内面化された対象に依存して機能する。私たちはここに、内面化された対象に依拠した、主体のある種の自律を指摘することができる。

 
 ここで著者が描出しているのは、精神分析理論が構造主義的権力理論の代理となって権力の構成を説明する様子である。主体の内部に陣取る超自我=権力はその外部に由来している。しかし、自我=主体を監視し、規制し、検閲し、処罰する内的な超自我=権力は、主体の外部にある現実的な権力からは切り離されており、「独り歩む」。構造主義的権力理論の起源としての精神分析理論に注目する著者は、権力に対する抵抗をシステム、あるいは構造の問題ではなく、主体の問題として捉える。少々大雑把に切ると、権力は対象なのではなく、主体(の一部)だということ。
 もう少しクリアにしておくなら、構造主義的思考にとって権力に対する抵抗が解決困難な問題として浮上するのは、権力が主体の外部ではなく、内部に存在しているから、ということだろう。権力はシステムを超えて、個々人の心的機制に浸透している。だから、あらゆる抵抗が主体に埋め込まれた内的権力への従順さの表現になりかねない。こうしたアポリア構造主義と共に乗り越えるために不可欠なのは、社会的構造の分析ではなく、権力の内面化についての考察、すなわち精神分析理論の再検討である。
 というわけで、権力と抵抗について考察する本書は、「構造主義的思考の内的な乗り越えを、精神分析理論との関係において分析する」ことになる。

 

「主体の権力への依存」というテーゼが精神分析理論(とりわけラカン理論)の触発によって生み出されたものだとすれば、権力への抵抗の思想は、同時に「何ものかへの主体の依存」と主体の「脱中心化」というテーゼを提出した精神分析理論そのものへの「抵抗」の思想でもある。