勝ち続ける力

勝ち続ける力

勝ち続ける力

 ジョイスなどの翻訳で知られる名翻訳家・柳瀬尚紀と6つの永世称号をもつ棋士羽生善治の対談集。
 テーマがもうひとつ、ピンボケしているせいか、柳瀬の翻訳論も羽生の将棋論*1もそれぞれおもしろいが、両者のあいだに化学反応はないように見える。しかし、編集者が各対談の前後に付け足した文章が論点をうまく濾過している*2
 それはさておき、羽生善治は、将棋に対する関わり方を「勝負へのこだわり」と「真理の追究」のふたつに大別している(199〜203)。
 「勝負へのこだわり」というのは、古くは盤外戦も含む人間力の勝負まで遡れるが、現在の環境にひきつければ、情報の公開と共有を促すIT革命以降に整備されてきた「高速道路」にのっかり、まっしぐらに目先の勝利を目指す姿勢、と考えていいだろう。星の数ほどある棋譜を星座(定跡)として跡づけ、「方程式」を暗記し、それに則って無駄な手を省き、効率的に勝ち星を重ねていく。無数ある手を、数手、そして究極的には一手へと収斂させていく。
 対して「真理の追究」は、「高速道路」を外れた「けものみち」を開拓する人知への挑戦を指す。「高速道路」の上に「雲を掴むような」立体交差を建設する。あるいはより最短距離を目指し新しいインターチェンジを構想する。都市のコンクリートの下に蝟集する地下水脈、すでに見限られつつある限界集落前人未到のジャングルを、地質学者として、測量士として、文化人類学者として、俎上に載せる。定跡と言われている手順を覆すような新手の発見、新しい戦型の発明はそうして起こる。「神の手」に向けて、常識を覆し、定数を乱数化し、可能性を開いていく。そのために、先人が示した「方程式」を忘れる。
 そうした「勝負」と「真理」という大別を踏まえて、本書に出てくる発言、構成、文脈を見渡すと、羽生を「真理の追究者」に特化して理解しようと躍起になって、ささ、どうぞ、と上座に座布団を敷いているような印象を受ける。たとえば、

いまは、すべてのことを確率で決めようとするじゃないですか。どういうやり方をやれば一番勝つ確率が高いか、これは利益が出るかでも同じことですが、私は、計算可能な確率を上げていくという方法がベストだとは思っていないんです。
データを集めて分析し、中で一番確率が高いものを選んでいくという戦略は、まず、やっている本人が楽しくありません(笑)。それに、将棋に限らず、あらゆるジャンルでも、偶然性や不確定な要素がとても大きな働きをしているでしょう。(58)

 けれども、こういう羽生の発言に代表される「真理の追究者」羽生善治という肖像は、たしかにわかりやすいが奥行きに欠け、味気ない。羽生の意識もそれに近いのだろうが、もう少し批評的な踏み込みが欲しい。
 むしろ、羽生の凄さは、据え膳としての勝負とライフワークとしての持続的研究、という相反する志向を、ひとつひとつの対局に同居させようとしている点にあるんじゃないかと思う。簡単な練習問題に答える生徒と、乾坤一擲、大難問を作り出す教師、というちょっと噛みあわないように見える二役を、二人羽織のように演じるような。
 「勝ち続ける力」とは、もちろん、連勝するための棋力ではないのだろう。目の前の勝負に「勝つ」という刹那と将棋の研究を「続ける」という永劫とのあわいに身を置きながらも、両者を撞着や矛盾へと短絡させることなく、均衡や共生として大らかに理解し、実践する力こそ、羽生の「勝ち続ける力」なんじゃないかな、とささやかに思う*3


 以下、余談だが、本書のハイライトのひとつ(といっても、本文ではなく、編集者が書いた部分なのだが)。

 島朗九段が一度だけ掛けた電話番号を覚えていて、みなを驚かせたという話も伝わる。本人にとっては普通のことらしい。名文家としても知られているが、手書きFAX送稿だった時代も、送ってしまったら、すぐ原稿を捨ててしまったという。自分が書いた原稿ならば、すべて覚えているからだ。(84)

 柳瀬は対談中、棋士の記憶力をボルヘスになぞらえているが、それがジョークに響かないところが空恐ろしい。他にも、さがしものをするなど愚の骨頂、「巻き戻せばいい」と記憶のフィルムをリバースして目当てのものを見つけ出す棋士、偶然ふらりと一度だけ行ったことのある寿司屋の名前を思い出す棋士、列車の車中に忘れものをしたことに気づき、何両目のどこに何時何分に忘れて、自分はどこからどこまで乗ったかを、寸分狂わない記憶をもとに説明する棋士の逸話が登場する。テレビに出てくるフラッシュ暗算の天才少年など、まだまだ小童なのだと思わざるをえない。

*1:『ダブリナーズ』翻訳の過程とか、「玉はゴールキーパー」発言とか。

*2:日本語と英語とを右手と左手になぞらえ、それで翻訳ってのはこれをどうするんですか、という翻訳の本質を衝く羽生の発言はおもしろい。翻訳者ではない私は、素人考えかもしれないが、自動車についているような円いハンドルをつくるんじゃないかと思った。右手と左手は決して交わらないが、微妙な均衡を保って回転する。日本語と英語とのあいだに均質な距離をつくる。うーん、どうだろう。

*3:梅田望夫との対談で、羽生は結果よりも、プロセスを重視する発言(シリコンバレーから将棋を観る―羽生善治と現代 256)をしているが、両者は排他的な関係ではないように思う。羽生を、結果や勝負を重んじる風潮にアンチテーゼをつきつける剣客として読むのはわかりやすいが、彼は研究者であると同時に、現実に勝負の世界に身を置き、結果を残している。羽生が身を置く勝負と研究との間にこそ、「均衡の美」はあるのではないかとすら思う。