ex-perience

 健康ランドに行った。
 大衆演劇の立て看板がふたつ、ギリシャ神殿みたいな円柱、でも明らかに天井の低さは築40年超、でも5階建てのビル、だからお年寄りのたまり場。四車線道路を挟んで向かいにはドンキホーテ吉野家。彼岸と此岸。もちろんこちらが彼岸。レテの川を車が轟々と行き交う。
 すぐに入浴するのももったいなので、すこしばかり汚れた空気を吸おうと休憩室へ向かう。扉を開けると澱のように堆積した加齢臭がつんと鼻を刺す。鼻血がでそうなほどに刺す。20畳ほどのスペースに簡易ベッドとリクライニングチェアがずらりと並んでいる。どれもこれも合成皮革が剥がれて綿やらスポンジやらが剥き出しで、皮を被っている部分は茶色がかった不思議な斑模様がデコレートしている。ハワイアンの館内着に着替えた客たちがぱらぱらと、埋め草のように空間を埋めている。現代アートのインタレーションのような趣。昭和のくすんだ残照に身をゆだねているうち、なぜか臭いも気にならなくなる。
 椅子のひとつに腰掛けて正面に向かうと、40インチ超の液晶テレビが二台、日本シリーズを中継してる。落合中日と秋山ソフトバンク。失明しそうなほど眩い世界が長方形のなかで飼われている。こちらとあちら、画素数の粗密が狂おしい。岩瀬がマウンドに上がるとため息があちらこちらから漏れる。突如、最前列に陣取った禿頭の客が「もう打てんで、終わり終わり」と言い始める。隣に座っていた坊主頭の人が禿頭の目の前まで顔を寄せてうんうん頷きながらなにやらガナリ立てる。よく聞き取れないが、それでも禿頭ががくんがくんと頷く。岩瀬がゲームを締める。「ほらな、言うたとおりやろ」と禿頭がいうと、坊主頭がまた禿頭の方へ顔を近づけてうんうん「チュニチ、チュニチ」となんとか私にもわかる言葉を発する。「うん、中日強いな、そうだな」。「チュニチ、チュニチ」。「また明日だな」。「ごちゃごにゃ」。また坊主頭の言葉が声に潜っていく。それでも禿頭は言葉を投げかけ続ける。坊主頭の声もそれを追いかける。
 絶句した剥き出しの声が二人の間で交換されている。部屋に響き渡る声と声。誰かの寝息。イビキ。私の頁を繰る音。ところどころ皮革が剥げ落ちた椅子の上で、私はいつの間にか眠っていた。
 目が覚めて、休憩室を出て、臭いのしない廊下を歩き、喫煙コーナーでタバコを咥える。遠くから子供たちが走ってくる。通り過ぎていく。また帰ってくる。子供たちが三往復ほどしたところで私のタバコは灰になり、また次の一本に火を点ける。子供たちが走ってくる。どんどん人数が増えてくる。隣に座った老婆が子供を叱り飛ばす。「誰も怒らんちゃね。うちは怒るんよ」と老婆はしたり顔で隣の女性に語りかける。子供たちが帰ってきて、また走っていく。老婆は怒らない。その隣の女性も黙ったまま。タバコが灰になって、また次の一本に火を点ける。全速力で駆ける子供たち。瞬く間に灰になるタバコ。老婆は二度と怒らない。
 そのうち湯上りほかほかの妻がやってくる。ビアホールでアメリカン・オールディ−ズのカヴァーバンドが演奏を始める。ホールに入って生ビールを飲みながら演奏に耳を、角度にして五度ほど、傾ける。女性二人のツインボーカルベース、ドラムキーボード。ギター。衣装も髪型もロカビリー風で統一されているのに、ギターだけヘヴィメタ長髪金髪サングラス。つまらなそうに弾いている。音楽性の違い、という言葉が頭の中をぐるぐる回り始め、そのうちビールも空になったので外に出る。
 一時間後に落ち合うことにして、ようやく風呂に入る。さっさと洗い終わって、しらみつぶしに浴槽を回っていく。ジャグジー、薬湯、ノーマル。こなれたところでミストサウナに入る。蒸気が部屋を包む。一寸霧中。ミストか汗か、そのどちらでもある液体が私の表面を伝う。10分。いいところ。男二人組が入ってくる。声と背格好から中年だろう。そのうちのひとりが項垂れた私の隣に座る。シャカシャーカシャーシャーシャーシャーカシャカ・・・。机の上で助走をつけて宙に持ち上げたときのミニカー。ミニカーが幾度となく隣で往復している、そんな音。シャカシャカシャーカシャーシャーカ。私はちらりと横を向く。ミニカーは急停車する。私はまた項垂れる。ミニカーは走り出す。シャカシャーシャーシャーシャーカシャーカシャー・・・。どうやら隣人は草を食むようだ。満腹になって男は連れに声をかけ、出ていく。ぽっかりと間が空く。私は推論を飲みこんで、肌を撫でる。音もなく飛沫が飛ぶ。ミニカーは走らない。機械音が沈黙を破って、轟々とミストが噴き出す。私の隣にあった黒い空欄も真っ白になる。白い霧をかき分けて、私は外に出る。