participant-critique、あるいはパーティ

 『思想地図』第4号特集・想像力は、アーキテクチャーの問題系の表面を撫で回すに留まっており、肩透かしをくらった。次号をもって、北田暁広が責任編集から降りるようだし、なにより座談会や対談ばかりの寂しい誌面は、埋め草の枯れ具合ばかりを強調しており、退潮傾向、いよいよのっぴきならないところまで進行してしまったように映る。
 東浩紀宮台真司を始めとするオタク系評論家たちの停滞の理由のひとつには、批評対象に対する参与観察が昂じて、主体/対象の別が霧消してしまっている点が挙げられる。もっとも、それはほとんど戦略だといっていい。ごく一部に共有されたオタクの言説を社会分析の道具として用い、さらにはそれを社会構造そのものへと拡大するために、批評の主体と対象とがごっちゃになった混沌の情況を、彼らはほとんど確信犯的に再生産している。オタク批評はオタクの言説を社会全体へと流布するためのセールスマンでしかない。社会がオタク的に構成されているから、オタク系批評が必要とされるのではなく、オタク系批評がオタク的なセカイを世界として仮構しているだけの話だ。たとえ、本当に世界がセカイだとしても、オタクの言説=批評の錬金術は、現在進行形の情況の記述のみに特化している。炭鉱のカナリアのような警鐘の意義は認めるとしても、拙速な時評的時事診断に批評としての機能は期待できない。読み手は、キャッチーな比喩表現に包まれた感覚だけを共有し、選ばれたものは官能のプラシーボに打ち震える。
 まあまあ、そういわず。楽しそうでなによりじゃない?
 

前号にも編集作業はとても楽しかったと記したのだが、今号もそれに負けず劣らずに楽しかった。[中略]インタビュー、座談会の収録だけで計七回[中略]。関連する打ち合わせや似たような面子での他の媒体での仕事、それに単なる飲み会や麻雀(!)も含めたら、この初夏から秋にかけて、『思想地図』関連のメンバー(そこには濱野や西田、藤村といった過去の執筆者も含まれている)といったいどれほどの時間を一緒に過ごしていたのか、見当もつかない。