demo-cratic noise(s)

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

 政治の話というと、だいたい新聞に書いてあるようなことしか言わない輩が多い。とても退屈だ。ぬるま湯でのぼせている猫のようなものだ。生温い床屋政談にのぼせあがる。全身猫舌というのもいかがなものか。
 村民、町民、市民、県民(府民、道民、都民)、国民の政治参加は通常選挙を通じて行われる。茶を啜ったり、鼻くそをほじったり、スナックに通ったり、なにかと忙しい市井の人たちの「代わり」に、選挙にて信を得た「代議士」が政治を動かす。庶民は忙しいから、政治を専門職の人たちに外注しているわけだ。庭が広ければ手入れが面倒なので庭師にやってもらう。ゴミを処分場まで捨てに行くのも大変なので、収集業者に運んでもらう。忙しいから専門家に任せる。
 もちろん、政治は大切なものだとは思う。立法の府を抜きにして法治国家は運営できない。だから村議町議市議県議国会議員がいて、首長がいて、総理大臣がいる。「先生」といわれる人たちだ。「先生」というカテゴリーを、わたしは墓標のようなものだと考えている。たいてい「先生」には墓がない。誰かに盗まれたんだろうか。どちらにしても「先生」はもう鬼籍に入られた。だからこそ、代議士先生の方々をわたしはいつも大切に拝んでいる。
 最近は政治家の先生方を拝む人は少なくなった。学校の先生も尊敬されていない。専門家に対する評判も芳しくない。評論家を並べてバラエティ番組が成立する時代だ。拝むどころか笑う。
 そういうわけか、政治家の先生方はワイドショウの一部に登場する。もちろん週刊誌にも載る。ベストなんとか賞を芸能人と並んで貰ったりする。ベッドで苛めてもらったり、苛めたり、歌ったり、演技したり。政治は身近になった。わかりやすくなった。なんだか誰でもできそうな気がする。距離が縮まって、わかりやすく教えてもらうと、ついついなんでも口を挟みたくなる。新書を一冊読んだだけで専門家を気取るようなスノッブ。わかりやすさって本当に怖い。
 政治を外注しているくせに、いつの間にか政治家気取りの輩か学校新聞の記者が増える。国民の政治参加。それって代議士よりも粗悪なやつに政治を語らせるだけ。代議士の給与をカットだの、公務員の給料が高いだの、タバコは増税だの。それって憂さ晴らしか僻み。
 いつの間にか政治は市井と同じ地平にある。
 自分の歩幅に見合った地歩を固めずに、我先に短い足で遠くまで飛ぼうとする。
 政治にノイズが混じる。政治は料亭のなかまで可視化され、カメラのレンズは透明度を増す。その一方で、政治の議論はたくさんのノイズに濁る。旋律も律動も聞こえなくなるほどに。誰も採譜できない。
 なんだか時間をおいて書いているうちに前置きが長くなった。
 さて本書は、ノイズにしかるべき場所と地位を与えよう、ノイズの空間を設計しよう、そしてその先に政治に新しい活力をもたらそう、という射程を視野に書かれている。大衆のノイズを、限りなく無調や沈黙へと落ち込んでいく政治の強心剤にしようという意図もある。アレント、ハーバマスらを反証材料としながら、ローティやノージックを援用、ルソーの悪名高い「一般意志」の再評価とノイズの理論的裏付けに、本書は大部を割いている。
 一般意志は神のようなものだ、とわたしは解釈してきた。共同体の成員すべての特殊意志を貫く超越的な倫理。そのような具現化不可能で不可視で聞こえない実現不可能な迷信に近いものだと思ってきた。*1一般意志を実現しようとするとそれは独裁的な全体主義にしか至らない。そう思ってきた。
 東は一般意志を「モノ」だと大胆に解釈する。神もモノも<他者>(認識できる<自己>を控除したうえで残るであろうすべてのもの)である点においては等しい。だが、神が観念であるのに対して、モノは物質だ。モノはこちらの認識・解釈をことごとく拒絶するような存在ではあるものの、目には映る。物理的に実在する。そこが神とモノとの決定的な違いだろう。*2
 モノは<他者>である以上、コミュニケーション可能な存在ではない。ただしモノはそこにいる。角のとれた石ころ、黒ずんだ枯れ葉、齧られた団栗、干からびたミミズ、朝露に濡れるビニール袋。モノは雑然と、猥雑に、ただそこにいる。モノとモノとのあいだにはなにも関係はない。そしてかくいうわたしも、モノの前では血の通ったモノに過ぎない。
 東によれば、一般意志はモノの塊のことだ。分別できない、剥き出しで、玉石混交のモノ。
 モノとしての大衆の声には、立派な意見や意志、理論もあれば、些細な雑言、中傷、感想、反応もある。ほとんどが粗悪な石だとしても、東は選り分けて利用可能なモノだけを吸い上げるのではなく、玉石混交のまま垂れ流せ、という。選り分けてしまえば、それは特定の者によるひとつの意志に過ぎず、一般意志ではなくなってしまう。<他者>ではなくなってしまう。それこそ選ばれた誰かが政治を代理する「代議制」という政治のシステムが持つ限界だろう。*3
 だから東は「モノ」としての大衆の床屋政談をそのまま流通させ、識者による政治的議論の場に他者性を持ち込もうと提案する。国家の理性によって調律された国家的自己が演奏される場に、合理/非合理問わずになだれ込む他者のノイズ。政治の外部が、政治のありかたにある種のベクトルを知らぬ間に与える可能性。こうした東の理論的提議は、大きな自己として内在してしまいがちな共同体の哲学を問い直す契機に*4、さらには社会学が思考してきた「社会」と「個人」からなる枠組みの施工不良を査定する契機*5ともなるかもしれない。
 だが、本書が見据える標的は、政治という概念そのものだろう。本書では大衆の発するノイズを政治の外部に位置づけたかと思えば、旧来的な政治と大衆の戯言とが共にひとつの政治であるかのように混濁するような箇所も散見される。現代における政治の概念の揺らぎを体現しているのか、あるいは本書自体が意識的に揺らいでいるのかわからない。とまれ、モノとしての大衆のノイズは、政治の外部、政治にとっての他者であることに違いはないだろう。その外部性、他者性を存分に発揮させつつ、政治の暴走につながらないように制御する仕組みこそが、東の「夢」を具現化するうえで最も大きな比重を占める。このあたりは、批評的にはアーキテクチャの問題圏を詳悉する人たちのさらなるご活躍が*6、また実践においてはシステムエンジニアの高い技術力と柔軟な発想が求められることになるだろう。
 したがって、東の夢への途轍はまだ破線のままであり、現時点ではニコニコ動画ツイッターといったソーシャルネットワークが夢へのとば口として開いているに過ぎない。
 年頭だったろうか、「朝まで生テレビ」にて、東は視聴者によるツイッターのつぶやきをスタジオ内のスクリーン等に上映するよう執拗に求めていた。そういうこと。理念や理論を具体化すると「なんだそんなもんか」となるのは世の常。そんなもんだ。ゆくゆくは、国会のあらゆる会議室・議場にノイズを持ち込むというアイディアもあるようだし、新しい国家像や公共性への夢も膨らんでいる途中だ。今は理論が先行している。ただ理論はいつも現実より弱い。言語がすべてを掬えないのと同じように。理論はいつも実践の場からのフィードバックによって刷新される。
 密室のスタジオで録音したテープを巻き戻して再生するような政治にさようなら。
 プロの演者が演奏する只中で、絶えまなく鳴る手拍子、ひそひそ声、ポップコーンを齧る音、笑い声、怒鳴り声。演者はそんな雑音など無視して演奏を続けるだろう。それでも偶然、金切り声とサクソフォンとが和音を構成してしまうかもしれない。ドラムが手拍子とシンクロしてしまうかもしれない。ギターのアンプはそうしたノイズを増幅させるだけかもしれない。演者と観客とを分かつ「第4の壁」はない。半透明のスクリーンを挟んで、演者と観客はシンコペーションとコール・アンド・レスポンスを続ける。夢のライブハウスはまだ図面の上。
 本書はデモ・テープに過ぎない。ノイズが充満するデモ。ノイズに旋律や律動を聴きとるかどうかは聴衆の耳次第。
 わたしは政治を語ろうとは思わない。投票にもほとんど行かない。行っても白紙投票か、確かな野党の名前を書くだけ。ツイッターを利用したり、ニコニコ動画のコメント欄になにかを書きこんだりしようとは思わない。ブログもほとんど読まない。そもそもケータイすら持っていない。持つ必要を感じていない。それほど暇ではない。
 音楽には届かないデモとノイズをわたしは愛する。だからわたしもノイズをちょっとだけ重ねてみたくなった。ただそれだけ。   

*1:端的にいえば、国家と国民の関係を説明するための構成概念ということ。

*2:もしかしたらルソー専門の学者からすれば飛躍なのかもしれない。でもおもしろい。

*3:柄谷行人はすでにトランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)において、政治に他者を持ち込むことの可能性について言及していた。ただし、それは選挙制度に偶然性をもたらす、より具体的には当選者をさらにくじ引きで絞り込む、というものだった。

*4:たとえばバタイユブランショ、ナンシーらによる共同体論を参照。存在論的な思考が東の議論の背景にはあるのだろう。

*5:たとえば方法論的個人主義の行方―自己言及社会

*6:わたしは東が編集者として係わる一連の雑誌に対してあまり関心が向かわない。そこには他者性を帯びた異分子が欠けているから。異分子がいる座談会や討論はときどきおもしろい。