家族、それから

 最近、といってもここ2、3年のことについてときどき書いてみよう。
 たとえば裁判の傍聴。2年くらい前だったか、地裁の、それも小悪党の案件ばかりを扱う簡易裁判を傍聴した。閑散とした傍聴席の前で、もの悲しい物語が繰り広げられた。
 原付の窃盗、賽銭泥棒、おにぎりの万引き。罪状がまずもの悲しい。
 親から見放され養護施設で育った少年は、仲間から暴走族のビデオを見せてもらい、バイクを手に入れようと思った。繋がりや絆に恵まれないと、どんな種類の仲間意識であろうと飛びつきたくなるものなのだろう。しかし同じ罪状で起訴された仲間たちは、とっくに保釈されて家でぬくぬくと暮らしている。この少年には引き取り手がいない。だから成人式も迎えることができないまま、彼は拘置所で長いときを過ごした。彼の視線はマイナスドライバーのように尖っていた。
 知的障害をもつ青年は、お金に困っているわけでもないのに、数え切れないほどの数の賽銭泥棒を重ねた。青年は、障害者支援施設関連の職場でまじめに働いている。ただ障害者の支援施設に寝泊まりできるのは二年が限度だという。社会生活を営めると判断された時点で、青年は施設の外に暮らしの場を求めなくてはならなくなる。青年は兄と同居することになった。なぜか事件が起こり、事件は繰り返され、やがて発覚した。裁判官の前で背中を丸めた大柄な男は、真摯に謝罪の言葉を並べた。公判後、施設のケースワーカーらしき人たちが、実刑は免れ得ないだろう、と廊下でひそひそ話していた。
 年金暮らしの男性は、空腹に耐えかねてコンビニのおにぎりを盗んだ。再犯だった。罰金を納められなかったとき、作業所で刑務作業をしたこともあるという。しかしお金がないわけではない。彼の妻が財布を握っているからだ。男性には一日数百円というまさに「小遣い」が渡されるだけだった。当然腹が減る。だから盗む。捕まる。微罪なので実刑はない。罰金の代わりに刑務作業をする。妻の元に戻る。「小遣い」を貰う。腹が減る。まるで古典的ブルースのような反復。「解決」はどこにもなく、ただ空腹に飽かせて人のおにぎりを手に取るという小さな「決断」があるだけ。
 どの案件にも被害者がいる。だから法は加害者を裁く。ただ被告たちの犯した罪を「魔が射した」の一言で片づけることはできない。一回限りでは終わらないだろうから。彼らには家族に代わるような繋がりがないから。あるいは繋がりがなくても生きていけるような、「人間らしくない」強さをもたないから。
 ひとは必ずしも家族を必要とはしない。家族に代わるような絆や、ひとに頼らなくても済むほどに肥沃な自己世界があれば生きていける、とわたしは思う。ひととの関係や距離に規定される社会とはまた別の原理があれば。長いあいだひとは、関係の外部にある場所を家族に限定してきた。でも家族でなくても、その原理をもったものはある。関係ではない、別の何かが。*1
 家族ではない、社会的関係に依らない場所。そこは、法のようにひとを裁く場所ではなく、善悪を超えてひとをただ単に受け入れる場所だろう。つまり<判断>ではなく、<承認>をしてもらう場所。目に見えるものや理解できることを前提とする場所ではなく、目に見えないものや理解できないことがあることを前提とする場所。法や犯罪の問題には、法廷ではほとんど語られない、承認の場の欠落がついて回る。
 ひとは一度くらい犯罪を犯すかもしれない。生まれつきの犯罪者というのもいるかもしれない。承認の場があってもなくても、犯罪は起こるだろう。犯罪の数も減らないかもしれない。
 それでも社会的関係に依らない、承認の場は正しく生き延びるために必要だと思う。犯罪はもうひとつの、社会的には容認されない、生き延びるための禁じ手。
 被告たちに同情を挟む余地はまるでない。できない。わたしは彼らを「社会的に」断罪する。
 わたしにできるのは、彼らに共感し彼らを救おうと行動に走ることではなく、彼らの語られない部分を想像し、どっかりと座り込んで思考することぐらい。
 いつもわたしは、彼らとそう遠くないところで意識的に呼吸している。意識的に。 

*1:(欲望の)世界をオイディプス神話に極限しようとするフロイト主義を批判したのが、『アンチ・オイディプス』だった。確かにファミリー・ロマンスにも限界はある。相性の悪いものにまで適用しようとすると、プロクルステスの寝台のようなことになる。でも、家族の物語で自分が説明できて、それで生きていけるならいいんじゃないのか、とわたしは思う。物語を否定するのではなく、家族以外の物語があればいいだけなんじゃないかな、って思う。