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予告された殺人の記録 (新潮文庫)

予告された殺人の記録 (新潮文庫)

 アメリカ小説はおろか、英語からも離れて、スペイン語圏やスラブ語圏、イタリア、中南米その他にまで手を広げているこの頃。
 かつて学生時代、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を通読できなかったことがある。おもしろさがまるでわからなかった。これはわたしの文学的センスの問題だろう。*1
 でも、書き手を同じくする『予告された殺人の記録』にはやられた。フォークナーの『八月の光』に似ているかもしれない。共同体の祝祭と腐敗が、ひとりの男の身体で溶けあう。そして彼から噴き出る血飛沫によって穢れは祓われる。ある種の供犠小説だ。
 構成も文体も綿密に計算されている。遠巻きにぐるぐる同心円を描きながらゆっくりとある事件の核心へと忍び足で近づいていって、ある瞬間にふと気づくと、魅入られたのように中心を凝視しているわたしがいる。
 もちろん中心だけが小説ではない。隅っこでのやりとりのほうが心を抉ることもある。たとえば・・・女が男に長年手紙を送り続ける。男は一度も返事を寄越さない。ある日男が女を訪ねる。男は封がされたままの手紙の束を手にしてドア口に立っている・・・といった具合に。
 手紙の中身よりも、手紙を送ったり受け取ったりといった営みそのもののほうがひとの心を大きく揺さぶることがある。ポオ=ラカンのマジックハンドでも、手紙が秘める情緒的な波動を検分するところまではきっと届かない。
 わたしは、今年二度にわたって、親友と呼べる希少にして奇天烈な人物から手紙をもらった。手書きの文字を追う時間より、手紙を手にして封を開けるまでの間(ま)のほうがずっと長く重かった。まだ返信できていない。手紙は重い。手に乗せると実に軽い紙切れでも、いざ書く段になると筆が乗らない。手紙を受け取っても返信をしない小説のなかの男のように、わたしもそのうち彼女を訪ねて行ってやろうか。手紙を、ただし開封した手紙を携えて。
 本もまた手紙のようなものかもしれない。受け取ることでどこか満ち足りてしまうことがある。書架から零れた本は、部屋の隅っこのほうを満たし続ける。
 しかし本は必ず読まなければならない。煉瓦のように積まれた本が雪崩をおこす前に。隅っこがやがて食卓を浸食し、我が家の空きスペースと妻の心のゆとりが恐慌をきたす前に。本をどれだけ束にしても、送る宛てはどこにもない。本は送り返すものではないから。しかも本はときどき送る宛てなく書かれるから。書く行為に、読む行為ほど確かな寄る辺はないから。
 こうしてみると、<読むわたし>よりも<書くわたし>のほうがずっとよくわかっているみたいだ。

*1:そういえば『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も『グレイト・ギャッツビー』も読めなかった。なにがおもしろいのかまるでわからなかった。大海から離れたところで潮だまりをつくるのが好きなせいだろうか。いやいやセンスがないのだろう。今なら読めるだろうか。