蟻と糞

 いつだったか、何年か前の秋に沖縄に行った。
 とりわけなにをしたわけでもなく、貧乏なバカンスのようなものだった。
 那覇の海は秋だというのにそら恐ろしいほど碧く、ふと泳げそうな錯覚に襲われる。砂浜は陽の照り返しを受けて白く輝いている。
 季節と季節の継ぎ目がよくわからない島だった。
 わたしは海のつぶやきが聞こえる場所にベンチを見つけ、独り本を読んでいた。頭上には、詫び寂びなど知らぬ存ぜぬ南国育ち、ガジュマルの葉がびっしりと寄り集まっていて、その隙間、ごく小さな蘿窓から、幾条かの光が零れ、内容に係わりなく頁の上をハイライトしていた。眼下では、もたれ合い、絡まりあい、互いを食らい合う、ルーベンスの『メドゥーサの首』みたいな根茎の塊が黒々とした土壌を持ち上げている。不規則に波打った黒土の上を大きな黒蟻が闊歩し、ときおりわたしの足を脚立と勘違いしては登ってくる。脚立ではなく、外敵か食い物だと勘違いに勘違いを重ねた輩は、ジーンズの上からわたしの皮膚を噛んだのち、たちまち命を落とす。わたしの手は、頁を繰るより蟻を叩き落とすのに忙しい。
 微かな波の呟きとガジュマルの木陰がわたしを包み、わたしは読書と蟻の撃退に没頭していた。静寂(しじま)を破るのは掌の一撃だけ。
 そう高を括っていた。
 不意に白い一撃が降ってきて、わたしの視界を汚した。黒い印字と余白の上にべったりと白い修正液がこびりついた。糞だった。わたしは頁のうえに落とした視線を拾い上げ、緑の蘿窓の彼方へと恨めしげに向けた。鳥の姿はどこにもなかった。
 読書はいつもわたしを独りにはしない。いつ、どこであろうと、読書はわたしをわたしの外へ駆り立てる。読書は体験だから。
 確かに沖縄は読書体験にうってつけの場所だと思う。
 糞について饒舌に語る頁の上に糞が落ちてくるのだから。
 そのとき、わたしは『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』と題された大きな本を読んでいた。