ヴァレリー
ヴァレリー・セレクション (上) (平凡社ライブラリー (528))
- 作者: ポール・ヴァレリー,東宏治,松田浩則
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2005/02/01
- メディア: 新書
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人間の精神はその追求するものを見ればばかげているが、その発見するものを見ると偉大である。
精神の危機 他15篇 (岩波文庫)といくらか被ってしまっているが、「精神の危機」も含むこちらの選集のほうが、ヴァレリーという人を多面体として理解するのには適しているかもしれない。簡素で明晰な言葉で、ほの暗い部分に火を灯し、明るい場所には影が射す。とても読みやすく、すぐにわかったつもりになりそうな文章だけれども、なかなか身になりそうにはない。ヴァレリーの文章を読んでいると、若干隔世の感あり、という部分もあるが、それ以上に「いま、ここ」を逆なでにする卓見に驚かされる。つい、衰微の一途を辿る批評のことを思ってしまう。というよりも、まあ先送りされるモダンは事実上同じことを絶えず反復しているわけだから、批評だけの話でもない。新しい足踏みの仕方が次から次に出てくる。が、どれも足踏みであることに変わりはない。謙虚に憂鬱に、夢から覚めて夢について書く。
個というものは、自らを理解するためにできることは何でもする――個が語るときは何よりもまず自分に語りかけるからだ。彼がつねに感覚というただひとつの領域から得た融通のきかない材料を用いて構築しなければならないのは、ひとつの全体であって、それは自分の思考の多面性、そのさまざまな中味、迅速な変化、スピード、強力で不可逆で普遍的な整理分類などを再現するはずのものだ。彼は自分のそうした思考を、思考とは異質な諸要素を規則に従わせつつ並べながら復元できなければならない。これらの要素というのは、純然たる約束事と見なすことができるし、規則というのは不可欠なものでまさに相互理解のための法則そのものである。
代表的評論「精神の危機」ではヨーロッパをめぐる政治的・社会学的な考察が前面に出るけれども、言語を介した思考と規則の関係についての考察もおもしろい。上のような考察が、いくつかのマラルメ論や本書の白眉というべき「ラ・フォンテーヌの『アドニス』について」へと誘うたおやかなる導きの糸となっている。ホモ・ルーデンス (中公文庫)や遊びと人間 (講談社学術文庫)にも通じるものがある。
未だその全貌の十分の一ほどしか陽の目にをみていない膨大なメモ書き、『カイエ』のなかから訳出された「一詩人の手帖」と「言わないでおいたこと」は、書く仕事、創作や批評に携わる人たちになんらかの示唆を与えるかもしれない。絵画や音楽、詩作、批評、あるいは鬱憤、諧謔、憐憫など、さまざまな題材を手がかりに「思考の錯誤」を繰り返しながら、書斎で呻吟するヴァレリーの姿が偲ばれる。
<モダン>の正中をこれほど的確に衝くことができるのは、他ではベンヤミンぐらいだろうか。
新しさ。新しさをねらう気持ち。
新しさというのは、例の興奮性の毒物のひとつであって、最後にはどんな栄養物より必要になってくる。いったん毒物がわたしたちを支配すると、その量をつねに増やさなければならず、死なないまでも、致死的な量にいたらしめる。
不思議なのは、物事のうちで滅びやすい部分にあれほど固執することで、滅びさるのはまさに新しいという資質なのだ。
だから君に分かっていないことは、最新の考えには、何と言えばいいか、上品さのようなものがただよう、急ごしらえじゃない、熟慮の果てといった雰囲気、何世紀も前から存在しており、今朝つくったり発見したのでなく、忘れられていたのが再発見されただけといった雰囲気をまとわせないといけないということだ。
最後にわたしが気にいったアフォリズムをひとつ。
書物。
わたしが評価するほとんどすべての本、そして何らかの意味でわたしの役に立った本は、例外なく、読むのが相当むずかしい本だった。
注意力がこれらの本から離れてしまうことはあっても、読み流すことは不可能だ。
ある本はむずかしかったけれど役に立った。別の本は、むずかしかったからこそ役に立った。