断章、dis-aster、形式

 

The Writing of the Disaster: L'Ecriture Du Desastre

The Writing of the Disaster: L'Ecriture Du Desastre

 http://sankei.jp.msn.com/life/news/111225/bks11122508490002-n1.htmを読んで。
 ごもっとも。
 これを読むと、毎日新聞夕刊に月一ペースで連載されている文芸時評を思わずにはいられない。
 時評という性質上、批評のおもしろさを期待しているわけではない。時評には書評のように購買の可否を左右するような面白さを剔抉する緻密さもなければ、著者の一連の作品への遡及に割く十分な紙幅もない。時評において、小説の評価を左右するのは、評者の決然とした嗜好とときどきの気まぐれだろう。当然、時評を書くものは自分のテクストが踏み石になることぐらい自覚しているはず。だからこそ、評者には自己のみに依存する潔さが求められると思う。石原の時評には毀誉褒貶あるだろうし、わたし自身彼のものの見方に同調するつもりなどまったくないが、彼の態度は潔く清々しいと思う。
 その点、毎日新聞夕刊の文芸時評はあまりに時代に寄りかかっている。リアリズム小説の復権・再生という切り口は、方法論に依っているようにも響くから聞こえはいい。しかし、その内実はあまりに曖昧模糊としてはいないだろうか。結果として、東日本震災に対してなんらかの反応を示す小説こそがリアリズム小説であるという時事的・事後的な定義がまかり通る。そんな物差しで評価された小説など、リアリズム小説ではなく、時事小説でしかない。およそ19世紀的な、モダニストの仮想敵だったようなリアリズムを、いわゆる「ポストモダニズム」なるビニールの腐乱死体のようなもの*1を撃つために復古させるのは、委縮した懐古趣味でしかない。
 作品内の言葉にリアリティがあれば、読者の眼前にはリアルな世界が立ちあがる。読者が小説に夢中になるのはそれがリアルだから。小説が、言語がもともと備えている原点に立ち返ればいいだけのこと。リアリズムは普遍的な方法論ではなく、文学史家が勝手に拵えた恣意的な時代区分、critique*2の瘡蓋でしかない。
 リアル、リアリズム、大震災ハイエナ。わたしには、これらが書くことを廻る同心円を構成しているようにみえる。
 大災害、ホロコースト、死屍累々の山について正しく書くというのは、単なる困難を超えて不可能事に属する。そういえば、北野武は先の震災死者を「二万人」の死ではなく、「ひとりが死んだ事件」が「二万件」*3、と表現し、たくさんの特殊個別な死を、一般化・統計化して処理することへの違和感を表明していた。おそらくそれは、被災者たちの生活ひとつひとつに目配りしようとした発言だったと思う。だが、「何万人の死」も「ひとりの死が何万件」も統計的な数字であることに変わりはない。死の計量化に逆らおうとするのであれば、計量化そのものに対しても意識を向けるべきだろう。
 モーリス・ブランショの著作に The Writing of the Disater という書名の小著がある。書くという行為について、幾年月、思索を続けたことで知られるブランショらしく、たかだか150ページほどの小著でも、エクリチュールに憑いて回る書くことの不可能性に取り組んでいる。
 なにかを書くとき、ひとは、常に書きたいものと書けるもの、書いてしまったもの、あるいは書けるはずのないもの、そういった幾層ものエクリチュールのあいだに空いた間隙と向き合わざるをえない。言葉はザル、掬える出来事はごくわずか。だからただ書くのではなく、書き続ける。ザルの網目を細かくし、用途に応じたさまざまなザルを集める。書くことでひとの前に立ちはだかる壁は、今まさに自分が書いている文字そのものだ。現実へは届かない。目の前の、自分が書きつけた文字の集積にぶち当たる。決して現実には届かない。届かないことを引き受けて、それでも書き続ける。
 書くという営為は、なぜだかわからないが、たくさんのひとを惹きつける。きっと可能なことは他の誰かでもできる。けれども不可能なことは誰もができない。できないことを通じて結ばれる書きものと書きものがかりたち。書くことの魔力はきっとその無為にある。
 たぶん、ブランショにとって「大惨事」はあらゆるエクリチュールの形式を拒むものなのだろう。そしておそらくだからこそ「大惨事」のように書くことがエクリチュールのまだ見ぬ可能態へと分け入るひとつの方法となりうる。「大惨事」について書くことはできない。どんなに筆圧を上げても、ただ「大惨事」のように書くことができるだけ。
 本書は、たくさんの断章から成る。ヴァレリーの『カイエ』のように、ベンヤミンの『パサージュ論』のように、バタイユの『内的体験』のように。
 わたしが思うに、断章は形式ではない。形式が星座だとしたら、断章はそこから零れた等級の低い星、あるいは星座から外れることを望む星。星座を編まない、夜空で逸れた星礫。星と同じように、断章の数を数えてもおそらく有意義な暇つぶしにはならないだろう。夜空に瞬く点描をその冥い水面に映す礁湖へと、断章たちは読み手と書き手たちを誘う。
 きっと断章は、形式を拒む、終わりなき断片の輪読。全体化を拒んでやまないあらゆる「大惨事」と同じように。
 だから「大惨事」について無理に書く必要はない、とわたしは思う。書くことは「大惨事」にそっくりだから。

We are not contemporaries of the disaster: that is its difference, and this difference is its fraternal threat.

The disaster, that which disestablishes itself---disestablishment without destruction's penalty. The disaster comes back; it would always be the disaster after the disaster--- a silent, harmless return whereby it dissimulates itself. Dissimulation, effect of disaster.

*1:つまりそんなものはないし、あったとしても使い道がない

*2:critiqueの原義は切り分ける。批評は大きなものを切り分けて細分化し整理していく。たとえば20世紀から始まったdecadeという奇妙な制度は、きっと批評がつくった。批評はいつでも画期を欲している。大澤真幸が保存状態抜群の標本だ。

*3:http://tariq1227.tumblr.com/post/4034843737/1-2より