躰と頭の可動域

 藁にもすがる思いで、youtubeを見ながらヨガをやってみた。硬い。自分の躰ながら、レゴブロックのよう。いつの日かばらばらになってしまいそうだ。アメリカ牛が近江牛になる日はやってくるのだろうか。
 ヨガの骨法は呼吸法にあるらしい。ながーく吸って、ながーく吐いて。少々味噌汁をソファにこぼしてもなんだか許せる。いいストレス解消にもなりそうだ。しかし、今のところ、わたしの躰に許容できる動作があまりに少ない。まずはラジオ体操から、というのが妥当。
 走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)を読み終わった。躰の「機械化」を通じて奔放な心の動きを調教していく、そんなストイックさが印象に残った。「SASUKE」オールスターズのメンタリティまでもう一歩、というところでどうにか作家側に踏みとどまっている。断崖で靴を脱ぐ人に感じるだろう危うさすら感じる。
 わたしには高校卒業までたくさんの怪我を誤魔化しながら躰を苛めぬいたささやかな前史があることだし、散歩ぐらいはするとしても、そこまで本格的に躰を鍛えようとは思わない。躰を苛めるぞ、とおふれを出せば、きっと筋肉が切れた痕が残った右太ももや二回の骨折で変形した右足首などが、スクラムを組んで抵抗するだろう。
 村上春樹という人はきっとわたしとは順序が反対なのだろう。わたしの10代にはほとんど本を読む時間がなかった。わたしはおかげで20代に入ってから今まで、読書経験の乏しさにいつも打ちのめされてきた。教養は今でもまったくないと自覚している。しかしわたしにとって教養は無意味なもの。わたしが本を読むのは失われた子供時代を取りもどす試みであり、乾ききった童心を今頃になって潤そうという、ただの足掻きなのだと思う。村上もおそらく足掻いている。大人になってから鍛え上げた、土台のない自分の躰と向き合って。
 書いてみないと自分がなにを考えているのか分からない。村上もそういう人なのだそうだ。よかった。「まったくのひとりぼっち」ではなかった。