晩冬

 この二カ月ほど、調子は下降線を辿り、これはどうしたもんかと思案投げ首しては、首こりに悩まされる日々だった。おかしい。冬生まれなのに。おまけに大雪の日に生まれたというのに。情けない。
 夏は昔から苦手で、煮干しやアジの開きに同情しては、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んできた。ところが躰の方は炎天下、まだ熱中症など口の端にものぼらない時代だったね、肉が焦げそうなほどに熱い土のグラウンドを駆け回っていた。実家が畜産農家を営んでいるかわいい後輩が子牛を一頭奉納してくれたことがあった。さすがに地べたで肉を焼いたりはしない。部員父兄総出で網の上に次々と肉を並べて焼いて、きれいに平らげた。うん、そういえば夏も悪くはなかった。
 そして冬も悪くはない。
 ここ二日ほど、下がった調子はユーロのようにじわりじわりと反発している。ときどき言葉が出てこなくて参る(今も「畜産」が出てこなかった)。それでも、ふとしたきっかけで、なにかのイメージが全身を駆け巡り、つかの間の快楽を味わう。
 たとえば紙片を握りしめてみる。ごわごわしたこわばりとぐしゃっと潰れる脆さを感じる。そうして僕は紙をゴミ箱に棄てる。
 きっとこうして棄てられた紙片たちは、街じゅうで誰かに解される日を待っているだろう。紙にはなにが書いてあるのだろう。棄てられた紙をできるだけ拾ってみよう。そして荷解きしてみよう。梱包するときの握力よりやさしい手つきで紙片は劈くだろう。僕はそこに<貌>を見つける。貌はくしゃっと笑っている。皺襞に寸断された文字が読める。見知らぬ駅名といつのものかわからない時刻の羅列。しわくちゃの貌に会いに行こう。
 春が来る。花粉が飛ぶ。ああ憂鬱だ。