ゼロの章

 この章の最後まで行きましたら(それよりも前はだめですが)、ひとつ皆さんと一緒に前に引き返して、空白のままだった二つの章にもどらねばなりません。あの二章のおかげで、私の名誉は、ここ半時間ばかり血を流しっぱなしなのです――私は何とかその血を止めたいと思って、はいている黄色のスリッパの片方を鷲づかみにし、ありったけの力をこめて部屋の向こう側の壁に叩きつけ、そのあとを追いかけるように一つの宣言も叩きつけます――
 ――その宣言とは、今投げたスリッパの片方が、この世にすでに書かれているすべての章、いやこう言っている間にも世界のあちこちで今現に書かれつつある章もあるでしょう、それも数に入れても結構ですが、それらの章の半分ほどと仮に酷似するところがあるとしても――そんな似方はゼウクシスの描いた馬の口の泡と同然で、まったく偶然の産物に過ぎないということです。のみならず、私は中に何も文字が書いてない、つまり中身ゼロという章には敬意を抱きます。世の中のいろいろの書物のいろいろの章には、ゼロ以下のものがどんなに多いかを考える時――私はゼロの章は決して槍玉にあげるべき適当な対象ではないと思うのです――(『トリストラム・シャンディ 下巻 298-99)

 空白。バートルビー的失語。白紙を語り手が評価するのはなぜか。おふざけといってしまえばそれまでだが、「ゼロ以下のもの」の存在を思えば、「ゼロ」の偉大さは引き立つ。つまり、白紙はなにかが書きつけられることによって汚れた紙になってしまう。白紙はまだ「ゼロ」以上になる可能性を秘めている。その「デュナミス」を、潜在可能性を、語り手は信頼している。
 白紙。ゼロ。
 『トリストラム・シャンディ』が近代小説の枠をはみ出すとしたら、その荒唐無稽さやストーリーの瓦解ゆえにではなく、ましてやメニッペア文学の正嫡としてでもないだろう。これだけ饒舌に語りながらも、白紙に言及することで語りつくすことの困難と語ってきた道のりにも多くの余白があることの傍白を仄めかしてしまう。それらは過失や瑕疵ではない。「ゼロ」は穴や深淵、そして未来について囁く。
 果たして小説の未来、「白紙」についてどのように書けばよいのだろう。どのように汚れた紙を嗤うことができるだろう。