オランジュリー

 印象派の殿堂オルセーの補遺、という位置づけかもしれない。
 セザンヌピカソゴーギャンルノワールシスレーといった面々の作品が並んでいる。もうひとつピンと来ず、足早に通り過ぎる。
 立ち止ったのはやっぱりユトリロ。なんの変哲もないはずの風景が、ユトリロの手にかかると、圧迫感濃厚な牢獄に見えてくる。わたしはこういう情念を人間や風景の中に閉じ込める画家に惹かれる。エゴン・シーレとか。
 そのほかで気になったのは、情念の否定というかたちで情念に憑かれた土偶のように空っぽなモディリアーニの作品もそうだけど、これ。

 

 

 André Derainという画家の作らしい。輪郭線の暈け方がセザンヌのものに比べるとどこか中途半端で、だからこそより幻想的な雰囲気が生まれている。疲れ目のときの霞みのような。霞む瞬間をとらえたような感じ。セザンヌの場合、風景と人間がほとんど同化している。それがいいのかもしれないけど、わたしは同化の一歩手前で立ち止まる逡巡のような瞬間のほうがぐっとくる。
 しかしなんといってもオランジュリーの目玉は、モネ『睡蓮』の連作壁画。
 一日の移り変わりをスイレンの池にて定点観測するというものだが、壁画がパノラマ的にぐるりを囲っており、一日の時間がひとつの空間に共-在している。時間を表すのは池の水面に映る光や影。ひとつひとつの描線は色のなかにのまれてしまう。ラファエル前派的古典主義が、ひいては絵画史全体が金科玉条としてきた線、彫刻的フォルムが消えている。光と影はモネの心象という柔らかい膜につつまれて、絵の中にあってなお揺れ続けている。その揺れ、羽ばたき、まどろみを近くで眺めると、太くも柔らかいタッチの連続がちぎり絵のように組み合わさって構成されていることがよく分かる。印象派の作品を鑑賞するには絵画に対する一定の距離を必要とするというのは定説だが、絵画に近づいて行ってそのヴィジョンの成り立ちを目撃できるのは現物に接する機会しかない。
 画素。
 印象派はスーラのような画家を点描画へと走らせることになる。画素の発見が、モネを始めとする印象派最大の功績なのかもしれない。