盗む手は発明する

ユゴーの不思議な発明(文庫) (アスペクト文庫)

ユゴーの不思議な発明(文庫) (アスペクト文庫)

 1930年代のパリにて、ひとりの孤児がある老人と出会い、「手」を通じて心を通わせ奇跡をおこす、壮大な「見世物」語り。
 ヴィクトル・ユゴージャン・ヴァルジャンを思わせる少年、そして家であり仕事場であり舞台である駅、傷ついた心臓の奥にひっそり眠る映画たち、それに写真、機械と、なにやらベル・エポックを通過したばかりのパリにしては19世紀の名残が強いように思う。いや、パリはもともとそういうところだ。たくさんの遺跡や銅像が近代的なビルや塔の懐にしまわれ、たくさんの偉人の名前が年功序列編年体を無視して通りという通りにでたらめに署名されている。時間と空間をごちゃごちゃにした錯誤と目眩の街パリにふさわしい作品。懐かしい。まるで絵のなかの黄昏を仰ぐような絵本。
 絵本という体裁ながら、映画のカットのように挿絵は差し挟まれ、文章はそのト書きというより長まわしのショットのように働く。当然、本作品には視覚文化史の百花繚乱阿鼻叫喚がたくさん詰め込まれている。18世紀より近代を風靡した「オートマン」たちにしても*1、「メディスン」の浸透に端を発する機械=人間のフーコー的言説の系譜*2にしても、頻出する手品にしても、もちろん映画にしても、それから主人公の存在そのものに深くかかわる時計*3にしても、どれも鬼面人を威す態の見世物文化を背景にしている。とりわけ舞台は映画の黎明期だから、映画に対する愛は深い。数々の名作映画に手向けられたオマージュも随所に見られる。最後の最後に明かされる「発明」も、テクノロジカルな視覚文化の系譜に属している以上*4、参考文献を並べて種明かしをしてみたくもなる。
 しかし、そちらにはまったく通暁していない真っ暗なわたしは、「表象」(representation)という手垢まみれの解釈格子をとっぱらって、虚心に手さぐり、読んでみた。
 

 これは「手」の物語なのではないだろうか。
 主人公は機械いじりが好きで、あらゆるおもちゃの故障を直してしまう手先の器用な少年。彼の父もまた時計職人であり、少年の器用な「手先」の指針となる。彼の叔父さんは駅舎の時計を管理する仕事に就いており、少年の家系が時計職人、ひいては手先の器用さが商売道具の職人(artisan)一般に属することを示唆している。
 「手」にまつわるのは家系だけではない。孤児となったユゴーは、ある少女と出会うが、彼は彼女を必要以上に近寄らせない。彼は近づこうとする彼女を手で制する。ユゴーは自分の秘密を守ろうとするばかり、ひとを信用しようとしない。ユゴーと少女は窓を挟んで出会う。この半透明のガラス一枚の隔たりは、ユゴーの他人に対する心理的距離、相手が見えながら「手」で触れないですむ、あるいは相手に触わらずにすむ距離を生み出しているといえるだろう*5
 かと思えばその少女の育ての親である老人は、ユゴーの腕を荒々しくつかむ。老人のユゴーに対する態度はおよそ友好的なものとはいえないが、老人の手の挙措はユゴーに助けを求めている*6
 ユゴーは老人の手に引きずり込まれるようにして、自立への道を歩む。父の「遺産」を安易に相続することをやめ*7、自らの手でものを生みだそうとする。その手は少女の手と繋がり、老人の抑圧された記憶を文化的な遺産へと昇華し、さらには「発明」することになる*8教養小説の額縁にこの物語を嵌めこめば、そういうことになるだろう。
 しかし、その器用な手は盗む。食べ物を、飲み物を、自動人形の部品を、鍵を。ちょうどこの物語がたくさんの映画を盗んでいるように。
 そう、「発明」する手は盗みをはたらく。いや、盗みをはたらくからその手は罪深く、そして創意に富んでいる*9。盗みを働かなければ、ひとは発明できない。発明するということは盗むこと*10。だからひとは何か新しいものを生みだすことで、何かを盗んだ罪を贖おうとする。ホメオパシーのような営み。
 創作につきものの引用やintertextualityとは違う。「新しいものを生み出しているのではなく、過去のものを再利用しているだけ」、というよく聞く厭世的な皮肉、あるいは言い訳の響きは「発明」にはない*11
 なにか新しいものをつくることを発明と呼ぶこと。そこにはメルヴィルの処女作、畢生の名文句 "I have created the creative" (Mardi)にも似た傲慢がある。傲慢は盗みの罪悪感を引き受けるためにある。
 創造の世界の外へ、安全な部外者の世界に囲って韜晦を重ねるのではなく、創造者は盗みの責任をとる。
 盗みは発明の母。
 かくして職人ユゴーの手は、盗みの贖罪のため、あのプロメテウスのかわりに「発明」する。と、傲慢に結語しておこう。
 
 
 アルス(ars)を原型としながらいつの間にか階級を異にすることになった至高の芸術、手工の職人芸。
 『ユゴーの不思議な発明』は、芸術と職人芸が共有するはずの根源の所在を改めてつきつけているように、わたしは思う。職人の子どもが「発明」するのだから*12

*1:最近だと、謎のチェス指し人形「ターク」が簡明でおもしろい。聴覚文化と機械ということであれば、モデルニテとモダニティのギャップに注釈がない点に不満は残るし、あまり作品解釈がおもしろくはないが機械仕掛けの歌姫―19世紀フランスにおける女性・声・人造性もある。

*2:ホフマン、ポオ、メルヴィルリラダン、カルージュ、ジャリ、それから人体標本、解剖学、四大気質理論などなど。

*3:機械仕掛けの伝統は時計に始まった。見世物文化と職人文化とが踵を接する地点が時計なのかもしれない。映画史という時の流れが機械仕掛けの時計の長針に括りつけられ、ぶらさがる。本書のなかの一枚の絵、ひとつのコマへと物語全体は収斂する。

*4:映画は、職人文化の正嫡ではないにしても、養子ではあるだろう。老人と少年の関係がそれを物語っている。

*5:当然、「絵画は窓である」と絵画を定義してみせたアルベルティ論を敷衍して、映画のスクリーンを窓に喩える言説はあるだろう。映画研究に疎いわたしでも、読後の今なら、窓を映画のなかと外へと分離する閾として解釈するのが正統だと思う。

*6:「掴む手」に対して、駅の群衆はユゴーに「ぶつかる」障害物であり、そのなかに紛れこむことのできる舞台装置でもある。しかし、彼は官憲の「手」に連れ戻される。

*7:なんだか19世紀も終わって20世紀という感じがする。

*8:挿絵にも手はたくさん描かれている。そして読者はその手に触れて頁を繰る。

*9:この罪深さはイノセンスの裏返しでもある。『シザー・ハンズ』は好個の例。

*10:inventは盗みの隠語でもある。

*11:「発明」にあるのは、「でっちあげ」と紙一重の危なっかしさ。

*12:最近のルネッサンス研究は、職人から芸術家への栄転というポップな物語に頼らず、芸術家が職人でもある曖昧模糊とした芸の世界を歴史的に跡づけているという。たとえばデスマスク (岩波新書)