アンフォルムからシェイプへ、それから音環

 
 鬘と天然の分け目は曖昧模糊として、誰かの叫びが口移しで誰かの溜息になる。統合失調の躰を抱懐する濡れたシーツはどこにも見当たらない。シーツがあったとしても、それを濡らす涙を涙腺は忘れてしまった。あるのはただリズムであり、パルスであり、踊ることの難しい音楽だけ。独走する音楽とおいてきぼりを食らって喘ぐ躰。心臓に見合った音楽は、スクランブル交差点でさえ鳴っていない。
 ドゥルーズ=ガタリは踊れという。靴のなかに忍びいる砂礫を捨てて、靴さえも捨てて、踊れという。砂礫とともに踊れという。茫漠たる砂礫の群れに入れという。網戸を、人ごみを、警棒の十字架をすりぬける音楽になれ。
 命令が有効なのは、それに逆らう「余地」が残されているときだけだろう。バタイユにはまだ「余地」があった。何かを汚して、何かを割いて、何かを愚弄して、「サケル」の二重性を言祝ぐことができた。すべてを砂礫へと砕いてしまう冒瀆に意味はあった。
 すべてが砂礫ならどうだろう。砂礫の群れが砂漠と呼ばれて、はいはい、と風が吹いては砂塵が煙り、雨が降っては、はいはい、と濡れて固まり、天が照るとすぐに、はいはい、と解けて飛んでいく。どうだろう。「余地」はあるだろうか。
 「余地」はつくるしかないだろう。砂漠の上に。しばしのあいだ砂嵐をやり過ごす穴を穿つしかないだろう。風が縹渺と舞い、ラクダの死骸が砂礫へと解剖されていく淡々とした工程を、まるで光景のように鬱々と眺めるための虚無を。グラウンドゼロを。砂のない虚空を。
 穴を掘ろう。深い穴でなくてもいい。砂漠に深さは不可能だから(どれだけ掘ったら深いと呼んでもらえることやら。なにせいくら掘っても砂しかないのだから)。
 せめてなるべく冥い穴を掘ろう。
 穴から世界は生まれるだろう。あなたが生まれたときのように。あなたが転んだときのように。あなたが死んだときのように。
 穴のまわりを世界はまわる。穴のまわりでダンスを踊る。古いドーナツ盤をまわすには穴がいるんだ。せっせと掘ろう。
 穴を掘ったら針だ。音を出すには針がないとね。ストーリィ様とかプロットくんとか呼ばれていた物故者は見当たらない。
 縫いものはやめて、歯糞をほじるのは、旦那の太腿を刺すのはやめて。
 点を穿つ針でも使い道はある。針は古いドーナツ盤を掠めて音を出す。ドーナツ盤がまわる限り、点は線条になる。穴が埋まってしまうまでダンスは続く。ドーナツ盤の溝が擦り切れてノイズばかりになってもいい。ノイズに見合うダンスもあるはずだ。線条でさえあれば、いくらのたくっても、九十九折ってもかまわない。音楽と呼ばれなくてもかまわない。
 穴が埋まってしまったらまた一から穴を掘ればいい。くりかえしだ。ただし、あたらしいことのくりかえしだ。