『判断と崇高』ツイートまとめ+αその1

 

判断と崇高―カント美学のポリティクス (新潟大学人文学部研究叢書 (5))

判断と崇高―カント美学のポリティクス (新潟大学人文学部研究叢書 (5))

 注意:当方、カント初心者なので、内容に関しては保証しません。カント哲学に通暁されている方には直接本書に当たることをお勧めします。 

 『判断と崇高』は序まで。カントの『判断力批判』を軸に、判断のコンテクストとなるべき法が、判断のたびに立ちあげられる行為遂行的なものであることを指摘。バトラーのように規範に対する撹乱として行為遂行性を捉えるのではなく、より原理的に規範そのものの生成・存続に携わる行為遂行性まで遡行。
 バンヴェニストを経由して、判断の行為遂行性を確認した後、カントのいう判断、すなわち規定的判断力と反省的判断力のうち、後者に判断をめぐるアポリアを重ねる。法の立ち上げ、ないしは法の不在という危うささえ浮き彫りにする判断の相を追求する上で重要となるのが美的な範疇。
 美学と政治は、政治の美学化、ないしは美学による政治の隠蔽の危険を回避するため、従来相互排他的に扱われることが通例となっていたけども、むしろ本書はそのあまりに慎重な扱いにこそ、政治的な決断の核心に美と崇高をひっくるめた「美的なもの」がかかわっている徴候を見てとる。
 さらには、「美的なもの」を通じて、決断・判断の地平からの離断を促進するのではなく、むしろ脱美学化の契機としての美と崇高を考察する。
 つまり、本書がなすべきはアレントのように判断を理性的な領域の<機能>とすることではない。本書は、判断と法をめぐる根源的アポリアの<作用>が、判断の構造において第一義的な審級であることを、美学的=政治的思考、「崇高の思考」を通じて「増幅」させることが本書の経糸
 そして判断を美学の問題系において思考したカントの『判断力批判』が、本書の論考を繋ぐ横糸になると思われる。初めての領域なのでまとめが長くなった。註記も本文と同じぐらい充実している。なおまえがきで読者には、どの章から読んでもいいですよ、とドラクエ的選択の自由が与えられる。〆
 『判断と崇高』第1章まで。宮崎さんよりご指摘いただいたthe aestheticの件、すなわちカント、ひいては現代思想において、それは美学という学問を指すのか、美学にとどまらない「美感的なもの」なのか、美も崇高も含むものなのか、という問題に関しては第二節「判断の崇高」にて詳説してあった。
 基本から無手勝流に整理します。カントの「悟性」(understanding)は、「感性的に捉えられた自然に対して普遍的法則(概念concept)をアプリオリに付与することによって、当の自然を構成的ないし規定的に認識する能力」のこと。
 つまり「わかる」ということは、漠然と広がった感性的世界(自然、あるいは「自然状態」)に法則を見出すこと。なにかと他のものとのあいだに法則性をみつけて、それを隔てられた対象として捉える主体になること、とも言えるだろうか。この「認識」を可能にするのが「悟性」の機能。
 カントの「理性」(reason)は、感性や「悟性」とは異なり、自然を理念(イデア)として「推論」する能力のこと。砕くと、ハトに「平和」という理念を重ねて象徴化するようなことだろうか。悟性ならばハトに鳥類という分類や動物という範疇を与えるだろう。というわけで、理性と悟性はまるで違う。
 「悟性」と「理性」は、まったく違ったものとして働いて、まったく違う法則(法)を立ち上げ、互いにひとつの「領域」を構成することがない。なので、その両者を橋渡しする媒概念として「判断力」の領域が大きな役割を果たすことになる。
 ただし、判断力は悟性や理性のように「積極的に」働くことはない。悟性や理性は人間の自由、主体性を裏打ちする。けれども、判断力は世界に対して働くのではなく、ただ自分に対して反省的に働く。悟性や理性が積極的に働いて得たものに対して二次的に働く判断力、という三竦みの関係が前提。お時間。〆
 1.さて、『判断と崇高』。積極的な立法能力(外界の対象に法則を与える力)を持つ理性と悟性とのあいだで揺れる、ひたすら消極的で反省的な判断力の「位置」を確認した。判断はその脆弱な位置づけのために、確固たる場を持つことができない。
 2.だから、判断は絶えず繰り返されなければならない。判断は「自らが存続するために繰り返される」ようなマッチポンプ式で瞬間的な反復。裏を返せば、判断の瞬間は断絶・新生の契機ともいえる。だから判断の問いには(人間の本質・正統性ではなく)生きる方途を模索するアクチュアリティがある。
 3.批判は「規則を制定すること」ないし、どこまでが客観的に扱えるのか「限界を画定すること」(外界に対して形式を与えること、ともいえるかな)を指す。これはカントが批判のありかたを「法廷」に准えて語る際に「超越論的演繹」と呼ぶ、「理性の権限確定」とも言い換えられる。
 4.ある案件の事実関係を争う前に、法に照らしてどこからどこまで扱うことができるのか確認しておく必要がある。たとえば、被告に責任能力があるのか(心神耗弱等)、審理にかけるに値する事由があるのか(お兄ちゃんに叩かれた、では訴えられない)など。
 5.この「権利問題」、つまり訴訟の<内容>を問うのではなく、<形式>を整えるのが法廷であり、「批判」の権能となる。そして肝要なのは、法のモデルに則って語られる「批判」には、「判断=判決」(judgment)の契機が重ねられている、という点。
 6.つまり、カントの三「批判」には「判断」の問題が内在していたことになる。加えて、判決を担うのは理性である点にも留意。判断の自己反省的・マッチポンプ的・ノリツッコミ的(?)危うさは、裁判官である理性が後ろ盾となる限りにおいて回避されていることになる。のだけどもそう問屋は卸さない。
 7.とりあえず〆。疑問なのは法廷において判断はどういう位置を占めるのか。つまり、裁判官としての理性が行使する「力」なのか、あるいは法廷の中の誰かとして形象化されうるのか、それとも法廷というトポスそのものなのか、はたまた開廷を宣言し理性にバトンタッチする役なのか。イメージの問題。
 8.では『判断と崇高』。「理性の法廷」まで。法廷というと例外の含意があるように思ってしまうけれど、カントの法廷はごく日常的なもの。程度の差こそあれ、人は寝食に仕事に、いつも判断することを迫られているのだから。従ってカントの判断を煎じつめると、日常を法の観点から見直すことになる。
 9.カントの主体は、理性に奉じている限りにおいて自由を享受する。ホッブス的「自然」(状態)に法的な枠組を与え、その枠組の範囲内で人は自由に振る舞うことができる。カントの主体にとっての日常は、理性の「法」によって絶えず(再)構成されたものだといえる。
 10. 「法」には根拠がある。ホッブス的自然と法によって守られた自由の涯てには、より高次の「普遍的な自然法則」があるとカントは想定している。(砕くと、ホッブス的自然は、あくまでも法との「関係」において成立する概念だと思う。夫が妻との「関係」において成立する概念であるように。)
 11.その<自然法則>と近似した道徳法則がどの人間にも与えられている。だから人は道徳の名において平等でありながら(純粋理性における普遍)、自由な個々は独自に判断を下すことができる(実践理性における特殊)。永遠平和(普遍)の次元を確保した上で、個々の判断(特殊)を語りたいわけです。
 12.つまりカントは、「純粋」な自然と同系の「純粋」な理性を担保することによって、<自然法則>を頭に頂き日常を「実践的」な判断の場として考えることを可能にした、という感じだろうか。
 13.ところが、「実践的」な判断において、対象としての自然は感性的な自然と理念的な自然(イデア)へと峻別される。両者は似ているがまったく違う。しかしその原理をカントは同語反復的にしか説明できない。
 14. そこで自然法則に範をとっている(範型)とか似ている(アナロジー)といった曖昧な繋がりを問い直すべく、「法廷」での判断ではなく、<実践的判断>についての判断、<反省的判断>、すなわち「法廷」そのものについて問うのが『判断力批判』ということになる。ちまちまになるけど〆
 15.『判断力批判』の目的は「悟性と理性の両側へと二重化した自然を<自然の合目的性>を通じて捉え直し、そこに働くアナロジーの作用を反省的判断力の原理として追究すること。
 16.反省的判断力には「美的判断力」と「目的論的判断力」とがある。宮崎は前者を措き(1-2以降の課題)、後者の目的論について論じる。自然はわからないものであり、完全に認識されることはない。しかしそれでも、自然は人間が思考できる法則を含んでいてくれるだろう、という淡い期待がある。
 17.そうした概念未満の「準‐概念」こそが、目的論的判断力の作用において前提とされる「自然の合目的性」。カントは、目的論的判断力を語るにあたり、ミニマルな根拠を提示するに留まる。その脆弱な根拠のために、判断力はどこまでも自己再帰的・反省的であらねばならない。
 18.ここに至り、カントの「法廷」モデルが示す法、わたしたちが日常的に判断の基準としている法則に、明確な根拠がないことが明白となる。ただしそれは底なしの無法を示しているわけではない。少なくとも法なくして判断はできない、という法の「形式」を、カントは判断力に与えているのだから。
 19.ヘーゲルは、カントが法とはなにかについては思考したが、法をどのように適用していくのかについては語らなかった、と批判しているが、カントにしてみればふたつの課題は判断の実践において同じ場によって問われていることになる。
 20.つまり、「判断力は法を実現損ねることによってこそ、常に改めて実現するよう駆り立てられることになる」。判断力の弱さが、法の権威をいや増す。判断の失敗がありうべき法の存在を事後的に仮構し、さらなる判断へと人を駆り立てる。判断の連続が「法廷」モデルを日常的に持続させる。
 21.判断には法が必要だが、その法がどのようなものか私たちにはわからない。ただ判断には法が必要だという空っぽの「純粋形式」がある。「判断力のアポリア」に憑かれた人の判断は常に契機となり、法を更新する。「法は判断が不可能となり、判断が決断と化すその瞬間にこそ立ち現れる」。
 22. 以上、1-1 「判断力の法」でした。後学のためにあえて踏み込んでみましたが、少し冗長だったかもしれませんし、無知ゆえの間違いもきっとあるでしょう。とまれ、ここまでではデリダの『法の力』や『死を与える』が宮崎さんの議論の背景にあるように思った次第です。〆
 23.『判断と崇高』1-2 「判断の崇高」について。1-1ではカントの三批判の根幹に判断力の反省性があるということを論証していた。しかし美的判断力こそが判断力の反省性、法の確立に失敗しながらも法が必要であるという形式を問う上で勘所となることを立証するのが1-2だと思われる。
 24.判断力一般を原理的に分類すると、所与の法則に個別の事例を当て嵌める「規定的判断力」と個別の事例から出発して法則を見つけようとする「反省的判断力」とがある。著者はしかし、ドゥルーズの指摘を踏まえて、規定的判断力にも反省的契機がある、と指摘する。
 25.たとえば、肌の色が白い人を所与の人種カテゴリーに照らして「白人」とするのが「規定的判断力」。しかし、その人が自分のことを「黒人」だと主張したとしよう。どう見ても白人であっても黒人だと言い張る人を前にしてあなたの判断は失敗しただけではなく、人種カテゴリーの法則性はたちまち修正を余儀なくされる。
 26.蛇足。http://d.hatena.ne.jp/pilate/20071111に以前書いたことがあるが、ゲノムを調べると「人種間の差異(10%)よりも人種内の差異(90%)の方がはるかに大きい。つまり、「黄色人」と「黒人」の違いよりも、日本人と中国人の違いの方が大きい」。つまりブルーメンバッハ的人種分類に照らし行われた厳密なゲノム分析が当の人種分類の恣意性を明るみに出してしまったというわけだ。
 27.人種主義は人種分類を法則とする「規定的判断力」への信頼から成り立っている。しかし、目の前にいる他の誰でもないひとりの人間との関係において、判断は常に法則それ自体の反省への契機を孕んでいる。判断力の反省性は、このように、判断力そのものの不完全さというより、事例が常に法則へと回収されない余剰や欠如を孕んでいるがために起こる必然であるのかもしれない。
 28.それでも判断力の規定性に拘るとプロクルステスの寝台のように、アナロジーや範型といった曖昧さをもって規則を守るために目の前の人間を切り刻む、という転倒を余儀なくされる。判断力の優柔不断、「主客の分断」は、究極的には法に対する盲従が時に暴力の発現となってしまうことを防ぐための倫理的な安全装置ではないかとさえ思う。
 29.事実、「規定的判断力」は「反省的判断力」と同根であり、判断力が頼りないものであるにもかかわらず、カントは判断力の問題を掘り下げていく。「対象の認識にではなく、主観の感情に関わる」<美的判断>の問題へ。
 
 ≪だいぶ飛びます≫
 
 久しぶりに宮崎裕助『判断と崇高』、2‐4「吐き気」まで。判断力、美的判断力、構想力と冥府下りを重ねて、美の他者としての崇高、さらには美にも崇高にも収めることのできないまったき他者の感情の問題系をパラ・サブライムと位置づける。シニフィアンを経由せず回帰する、排除されたものの系譜。
 『アンフォルム』やバタイユの議論がカントに係わってくるというあたりがとてもスリリング。おそらくディディ=ユベルマン『イメージの前で』における「visualなもの」(「視覚的なもの」と訳されていたが、私は「ウツルもの」と訳したい)とも繋がるだろう。
 もうひとつ。『判断と崇高』によれば、カントによる架橋の契機としての判断力の場は「理性の法廷」として描かれているようだが、ドゥルーズの場合は演劇の舞台。この違いもおもしろい。
 
 ≪インタールード「物質的崇高」≫
 
 カントが橋を造って、その結構やそれを介した交通の統制に心を砕いたとすれば、ドゥルーズは「橋があるってことはそこに河が流れているでしょ」と容赦ない。激流や氾濫をものともせず渡し船で行こうぜ、というノリかな。
 『判断と崇高』のインタールードはまさにその分節としての橋、河の所在を示す橋にあたるような気がする。判断力、構想力、美的判断力などもそれぞれ架橋なのだけども、その架橋の(非)論理を構造的に示しているという感じか。そこにド・マンがいるというのは示唆的。『盲目と洞察』へのロンドン橋。
 『判断と崇高』の第三部入口の時点では、アナロジーやタイプに潜むアイロニードゥルーズならユーモアもでしょうか)を引き受け、美的判断力と政治的決断の地平を重ねる、そんな印象です。その離接の地点にド・マンがいるのかな、と思いました。先を読んでいきたいと思います。