第1章 Murriana

The Inner Touch: Archaeology of a Sensation (Zone Books)

The Inner Touch: Archaeology of a Sensation (Zone Books)

 感性(sensation)の思想史。ごく基本的なところから解きほぐしているし、話の運び方が上手なので読みやすい。25のセクションに分かれている、というのもリーダブルな理由かもしれない。これから断続的・間歇的にセクションひとつひとつについて、またそこから触発されては止まり木を離れ、ばっさばっさと羽ばたく私の(無謀な)思考について、自由に書き留めてみたい。

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 小学校のころ、ひとりでリビングに立ち尽くし、意識だと自分では信じているものを眼球の裏側へねじ込んでみたことがある。自分が生きていることに確信が持てなかったから。
 なぜだかわからないけれど、自分の四肢の動き、頭の中で繰り広げられる妄想、日々の出来事や会話、すべてが虚しく思えて、すべてが同じことの繰り返しのように感じられて、自分が生きていることが信じられない、あるいは生きていることが何なのかよくわからなくなってしまった。自分だけは他の人と違った神様なんじゃないかとか、自分以外の人間はすべてロボットなんじゃないか、と疑ったこともある。なんのために僕はここにいて、なんのために毎日ランドセルを背負って学校に行き、授業を受けて、なんのために友達なる人々と遊ばなければならないのか、まったくわからなくなってしまった。
 だから、これが意識なのだとしたら僕の奥深いところを探しあて、きっとそこに僕が存在する理由、あるいは生きるための目的を教えてくれるはずだと思った。眼の焦点が暈け、リビングと玄関を間仕切る扉はたちまち歪んで背景に退き、僕の目の前には眼球の裏側の世界が映り始めた。だんだん何も聞こえなくなり、いやむしろ「しーん」という持続的な沈黙が僕の耳を聾していた。手足は僕の支配から逃れ、感覚を失い、僕は眼球の裏側だけの生きものになった。果たしてそこにあったのは、冥い、ただ冥いだけの闇だった。ただ何も見えない、ただの行き止まり。僕が意識だと信じていたものは、僕が世界の行き止まりであることを告げただけだった。なんと薄っぺらいのだろう。僕はもっと深さのある生きものだと思っていたのに。目蓋は開いているのに真っ暗だった。
 つまり、こういうことだ。僕が生きているということは、ただ明るいというだけのことなんだ。生きていることと深さはなんの繋がりもない。だから根拠も目的もない。不思議だった。とても危うい気がした。怖かった。怖いという感覚だけが僕を包んで、僕がそこにいることを告げていた。僕はただ存在している。
 そんな冥さが僕の原風景だ。哲学的に響くかもしれないが、きっと生きているというのはそれだけのことで、おそらく死ぬということもそれだけのことで、哲学するというのもそれだけのことだ。それだけのことだから怖かった。
 ヘラ―=ローゼンが説くところによれば、あのドイツの哲学者ヘーゲルも、僕が見た冥さと同じようなものを見たらしい(もっとも当時の僕の意識などせいぜい光が当たらないと輝かないビー玉のようなものに過ぎないのであって、「夜」に比べれば明るい原始的な反射材という程度のものだったことは断っておかないといけないだろう)。「純粋な自己」なるものはその実「空っぽの夜」だ、と彼は言う。
 

 絶対的なものは夜であり、光はそれよりも若いのです。夜は無であり、存在の一切と限りあるものの多様性が現われ出でる始まりなのです。

 デカダンの詩人や作家たち、それからバタイユハイデガーブランショル・クレジオに至るまで、「夜」の系譜は涯てなく更けていく。きっと人は意識だと思われるものを介して世界を眺めようとする限り、原初の闇に行き当たる宿命にあるのだろう。どれだけ透徹した意識を自らに向けようとも、人はきっと肉体というモノであり、モノを意識は掬いとることはできない。むしろ意識は「モノとしての私」の「現われ」(apparition)に過ぎないのかもしれない。
 人は意識を持つから意識を意識する破目に陥る。その点、猫はすぐれて明るい。とりわけE. T. A. ホフマンの猫は生の悦びに溢れているようだ。フロイトが「不気味なもの」の大部を割いて分析した、あの「砂男」を書いたホフマンの猫が、だ。いや、精確を期すなら、あくまでホフマンは編集者であり、猫が作者なのだが。
 『牡猫ムルの人生観』の話だ。*1

(猫)生にはなんだかとても美しく、とても素晴らしく、とても崇高なものがあるぞ!

 日も落ち、漆黒の夜が覆う空の下、建物の屋上が連なる猫の街に四本足を突き立てたムルは生の驚異に、「存在の感覚」に圧倒される。天にも昇らんばかりの喜悦に浸った彼の情感に「夜」が容喙する余地はない。

僕の上には星空のアーチが広がっている。満月はきらきら光の条を放っていて、屋根に尖塔がまったき銀色に輝き立っている。僕のぐるりに全部!

 室内で飼われてすっかり文明化した猫はさて措き、猫は本来夜行性の生きものだ。だから、ムルにとって「夜」はもともと昼のようなもので、特筆すべき時間ではないのかもしれない。そんなムルの眼には、光芒に溢れる美しい光景が映る。水平方向に広がる星のアーチ、そして頭上から照りつける夜の太陽たる満月が垂直に屹立する人工物を自然の反射材に変える。夜は光を寄せ付けない冥い深淵ではなく、生の悦びを全方位的・立体的に映しだすスクリーンであるかのようだ。
 ムルは考える。「人間さま」たちはこの生の悦びに浴しているようには思えない。二足歩行の生きものはどこか不安定で憂鬱で、四肢を地面にしっかりとつけ、生の礎の上で安定した生を送っているようにはとても思えないのだ。

人間たちが、彼らの頭に居座っているらしい何がしか、彼らが理性と呼ぶものとやらをずいぶんありがたがっているものだということは知っている。
僕には理性とやらがどういうものなのかさっぱりわからないのだけど、でもこれはぜったい間違いない。僕の主人とパトロンが言っていたことから僕が出した答え、つまり理性は意識とともに働くものであって、おフザケをするためのものじゃない、ってことが正しいなら、僕はどちらの人間さまとだろうと、生き方の取り替えっこはしないってこと。

 ムルにとって、「存在の感覚」に比べれば意識も理性もたいしたものではない。むしろ彼にしてみれば不幸の源泉ですらあるように映る。ハイデガーがいう「絶対的なもの」としての「夜」が意識や理性という照明の光が届かない場所のことだとするなら、そんな「夜」を意識することのないムルの生は、「感性の光」に照らされていることになるだろうか。ムルにとって生は、それがどのようなものなのか意識せずとも、そこにあるものなのだ。
 ホフマンが編集者であり、ムルこそが作者である、という設定も恐らくはこの生の驚異に端緒がある。ムルが書いた自伝は、ある音楽家の伝記と一緒に印刷されてしまい、編集者ホフマンは四苦八苦、この著書を読めるものに仕立て上げるべく奔走した旨、緒言にて断っている。その上、植字工による誤植までホフマンは処理しなければならない。裏を返せば、ムルの「存在の感覚」、意識以前に、意識を超えて「自分は感じているということの感覚」には、いくつものレイヤーがかかっている。ムルの剥き出しの生は、いくつもの皮膜に蔽われ、改竄・編集されている。おそらくはそうした紆余曲折の産物である『牡猫ムルの人生観』は、われわれ二本足の動物の生に対する係わり方の陰画でもあるだろう。
 二本足の動物の隘路、すなわち生について考えるという姿勢は、その考えている当の自分の意識へ、そして理性の光へ、涯ては存在の「夜」へと差し返されるという蔽いを剥ぐメカニズムを、われわれは今日、≪哲学≫と呼んでいる。だがその反省的態度は生の悦び、夜のスクリーンに映る生の光を見逃してしまってはいないだろうか。ムルを襲うsensation、そこへの立ちかえりこそ哲学の根源にあるのではないだろうか。
 "the feelings of existence"。
 feelの語源は「触れる」こと。存在について考えることではなく、生に触れ、触発され、揺さぶられること。事実、哲学は「啓蒙の光」ではなく、"the inner touch"、「内触」の光と共に始まったのではないか、というのがヘラー=ローゼンの物語なのだが、それはまた別の話。

*1:ホフマンの愛猫ムルのこと。その死亡通知を知人に送るほどなのだから、ホフマンはムルの編集者に過ぎないというのは本当のことだろう! http://www.geocities.jp/sybrma/384hoffmann.neko.html