第2章 エステティック・アニマル

The Inner Touch: Archaeology of a Sensation (Zone Books)

The Inner Touch: Archaeology of a Sensation (Zone Books)

 (承前)第一章:http://d.hatena.ne.jp/pilate/20121016/1350345030
 
 意識や理性の所在に拘泥することなく、生の悦びにただ浸る猫。
 ヘラー=ローゼンによれば、哲学の始祖たちも牡猫ムルと同じく意識や理性について語らない。
 今でいう「意識」(consciousness)にあたる言葉はギリシャ語やラテン語にはない。敢えて幅を持たせたとしても、せいぜい「良心」(conscience)に充当する言葉があるぐらいのものらしい。かてて加えてギリシャ古典文学を紐解いてみても、紀元前の作者たちは、自意識に相当するものについて語るときですら、知に働くことはない。
 われわれが考える意識というものはだいたい主体的なものではないだろうか。意識がない人間はたいてい一時的な仮死状態にあるか、鬼籍に入っているという通俗的判断を頂戴する。医学的診断はさて措き、われわれの語彙に照らせば、意識は生きている人間の条件となる。「我思う故に我有り」。考えないのであれば、人間といえどただの葦か糞袋だというわけだ。
 ところがギリシャ人の人間観は異なる。彼らは「わたしは意識する」、という主知的な人間ではなく、「私は共に意識する」、あるいは「わたしは意識される」というような受け身の見地から構成される人間だった。人間を受身にするもの、それは「感覚」である。

 

良かれ悪しかれ、意識(awareness)や自覚についてものする古代の哲学者たちは、意味論的にも語源的にも、ある能力の名に連なる、ひとしきりの表現を用いる傾向にあった。その能力は、理性とは異なり、魂の低級能力のひとつとしばしば考えられきたし、またたいてい、人間性の特徴ではあるけれども動物性の特性であるとも看做されてきた。というのも、彼らは知覚について、もっとざっくばらんに言えば、感受(sensation)について語ったのだから。

 感覚、知覚、感受。われわれには五感に関する様々な語彙がある。ギリシャ人の場合、そうした感覚にまつわる語彙は、「アイステーシス」(aisthesis)という「能力の名」に収斂していく。もっともギリシャ世界では、アイステーシスの適用範囲は極めて広く、外に働きかける感覚能力であり、裡へと受けとめる感受能力であり、現代であれば意識と見紛うような使われ方をすることもあれば、あろうことか知覚や感受とは関連の薄い「知的識別」(intellectual discernment)の意味で使われることさえあった。「知」(episteme)でさえ、アイステーシスに還元されてしまいそうなほど、件の用語は汎用性を誇っていた。ただ、ソクラテスが「死はあらゆるアイステーシスのたんなる不在のことに他ならないのではないか」と示唆するように、濫喩的なまやかしであるとの誹りも免れえないこの融通無碍が、アイステーシスを生の条件に等しいものにしていたともいえる。
 このアイステーシスに批判を加え、感覚を体系化し、生の本質に切り込もうと試みたのが、かのアリストテレスだった。
 アリストテレスは生に関する諸能力を階梯化していく。まず生きとし生けるものに共有されている「栄養摂取」の力があり、その上には「動き」や「欲望」があり、そして人間のみに許された「思考」がある。そしてこの階梯の中でアイステーシスは、「栄養摂取」とその他の間に位置し、植物と動物とを分かつ敷居となっている。アリストテレスは「人間は逆立ちした植物である」と言っていたと私は記憶しているが、動物が頭を地中に埋めることなく生きていられるのもこのアイステーシスのおかげということになるだろうか。
 感覚には原理的にみて4つの働きがある、とアリストテレスは言う。感じる持続的な能力、躰に存する知覚器官、感じられるもの、そして感受の実際的な出来事。この最後に来る、感覚が起こり感受される現場における出来事こそが、原理的な見地からアイステーシスと呼ばれるものである。
 アリストテレスはこのアイステーシスという出来事が発生する地点を見極めるべく、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)が働く条件をそれぞれ演繹する。
 五感は、適切な対象・特有の媒質・特定の感覚器官の相互作用によってアイステーシスを生みだす。たとえば視覚の場合、対象は目に見えるもの、媒質は光と闇という双極間に広がるスペクトラムとしての「半透明なもの」(ディアファーネス)*1、感覚器官は眼球ということになる。このように視覚的なアイステーシスは、眼球の助けを借り、光(眩しすぎて見えない)と闇(暗すぎて見えない)とのあいだのどこかの地点で、見えるものを受け取ることで起こる出来事である。換言するなら、アイステーシスは対象や感覚器官が揃っていたとしても、媒質による介添えなしには生起しないということになる。*2
 しかしながら、完璧にも映るアリストテレスの感覚論の理路は、触覚の段に至り、突如隘路に変わる。というのも、触覚の場合、媒質が見当たらないのだ。人となにかが接触するとき、そのなにかは人に対してあまりに近すぎるため、対象を対象として考えることができるだけの距離を、つまりは媒質を見いだせない。彼は肉体(flesh)を媒質だと想定するが、同時にそれは感覚器官だともいえる。*3あちらが立てばこちらが立たず。ここから言えることはせいぜい、触覚の出来事は、ほとんど知覚できないほど薄い膜のようななにかの媒質に隔てられた、肉体と触れられるものとが接触するところで起こる、という心許ない仮説に過ぎない。
 したがってアリストテレスは、感覚論の前提――対象‐媒質‐器官の鼎立――を触覚の議論に至り覆すことになる。わたしたちは媒質を通じて感じるのではなく、媒質と共に感じるのだ、と。
 これだけにはとどまらない。視覚には光と闇が、聴覚には耳触りの良し悪しが、味覚には苦さと甘さが、というように、諸感覚にはそれぞれ媒質となるものの二極性が存在し、それらの極のあいだでアイステーシスは生起していた。しかし、触覚の場合、媒質の二極性を定義することができない。「触覚の対象には多くの対立項がある。寒暖、乾湿、ざらざら・すべすべ、といったふうに。」このリストは続く。軽重、硬軟、ねばねば・脆い、厚い・薄い......。アリストテレスは触覚的アイステーシスが生起する媒質の二極性を特定することもできない。
 ヘラー=ローゼンは、アリストテレスの試行錯誤を見て、彼は触覚を五感のひとつとして数えることができないのではなかったか、と推察する。アリストテレスの説を敷衍すれば、触覚は潜在的には他のあらゆる感覚になり代わることができる。というのも、五感は媒質において顕現するが、それらは感覚器官を手段とする接触(contact)によって現われる、つまり触覚的に生起することになるからだ。すると、アリストテレスの次のような書きつけは真に迫ってくるだろう。「五感は触覚によって感覚する」。「触覚はすべての動物に備わる第一義的感受である」。
 ヘラー=ローゼンの言葉を借りるなら、「感覚的生は、触覚の力の現前とともに現われ、まったく対称的に、否応なくその不在と共に途絶える」ということになる。かくして、生は意識されるものではなく、知覚する力と同義となり、知覚する力の根幹には触覚的アイステーシスの出来事があるということができるだろう。「古典的学説では、感覚する魂は接触なくしては何ものとも出会わないし、触知(tactile)的身体の領域はアイステーシスの領域と同程度に広大かつ多様なものとして遍在し続けていた」というわけだ。
 牡猫ムルはいみじくも生の悦びに打ち震える自らをギリシャの哲学者に喩えているが、実に正鵠を得た表現だ。アリストテレスにとって、生きとし生けるものの生がいかなるものかという問いは、そのまま生に触れることで沸き起こるアイステーシス、触感(tact)の問題に他ならなかったのだから。

*1:ヘラー=ローゼンは"transparent"と訳しているが、岡田温司は『半透明の美学』 asin:4000244612において"translucent"と訳していたため、ここでは半透明とした。

*2:視覚以外の感覚現象になると、水や空気が媒質となる。

*3:アリストテレスは皮膚を感覚器官とは見做していなかった。皮膚の感覚が日の目を見るには、1543年ヴェサリウス著『ファブリカ』を待たなければならない。The Book of Skin asin:1861891938参照。