将棋と数独

 高知に学会で赴くのはこれで二度目か。記憶に依れば、前回は闘犬を観戦したのだった。あれは貴重な体験で、しばしば私を裡へと巻き込む「想起」というものの力をよくよく思い知ることがある。発火剤となるのは、マーマレードのようなお上品な匂いではもちろんないのだけども。
 電車を一本逃したせいで一時間ほど遅刻、『白鯨』と入墨についての発表だけ拝聴した。発表を小耳にはさみながら想像力の翼を羽ばたかせ、瞬く間にハンドアウトが真っ赤になった。いい素材だと思う。 
 いくらか先生方にもお会いした。案外、この職に就いている人たちって老けないものだな、と思った。禿げても生き生きしている。
 講演はタイトルからしてあまりにもつまらなそうなので(失礼ながら本音です)、さっさと街へ繰り出し、一年ぶりに再会した先輩と久闊を叙す。
 私はほとんどパトスでできている人間*1なので、浮沈が激しい。中学のころからそのことを自覚し、矯正に努めてきたおかげで今では石田衣良のように心なく振る舞うことができるけども、正直、内心は穏やかではなかった。ざわめきを嵐に変えることを厭わない仲ではあっても、嵐になって得をするとは限らない。飼い犬によく手を噛まれる人間の場合、特に。結局、嵐のあとの寂寞に打ちひしがれ、日常にうまく軟着陸できなくなる。だからこういうふうに生まれついた人間は、できるだけフラットに生きた方がいい。少しでも平衡を失いそうになったら、自分とは異なるルールに身を委ねた方がいい。限られ、仕切られ、自分ではルールを変えることのできない小さな世界に避難した方がいいと思う。私の場合、その世界には「将棋」というありふれた名前がついている。
 もはや何年ぶりかわからないほど久しぶりにお会いした、一見、青年実業家然とした、しかしその実、後輩のような(失礼ですけど爆)先輩も加わって学内業務の困難に聞き入る。大きな大学になると、教務の仕事というのは数独に似てくるのだなあ、とあれこれ妄想したり。懇親会に顔を出されるとのことで、早々にふたりに戻る。背中は立派な父親のそれだった。
 先輩は御家族同伴ということもあり、8時台でお別れ。外は騎馬戦のような大雨(なんだそりゃ)。タクシーでホテルへ。
 きっとこれぐらいの爽やかな人づきあいのほうがフラットに生活できる。激情の首に縄を巻いて裡で飼っている人間には、これぐらいでちょうどいい。そう思いながらもウエットなビールを飲んで寝る。ぐーぐー。
 翌日はなんだかんだぶらぶらしているうちに過ぎていき、夕方、電車に乗り、夜中に帰りつく。遠いね、高知は。
 

*1:他面では、そのパトスに見合う強力な理性に守ってもらっているという意味でもある。だから我に返り、崖から落ちる前に踏みとどまることもできるが、そもそも断崖の手前まで行かなければならないことの意味をよく考える必要がある。反面、理性は危険だ、と推論してくれるが、時に危険な方向へ推論をすることも忘れてはいけない。これもいろいろと厄介なのだ。両者の緩衝材を育てることが大事ね。