長々と

 なんだか釈然としない天気。ドラフト会議があった。片山を取れなかった広島。河内がこんな調子の現状で、左腕が取れなかったのは痛い。広島の先発陣はほとんど右腕。どうなることやら。辻内・平田の大阪桐蔭コンビは、それぞれ巨人、中日へ。辻内はコントロールも悪いし、心臓も小さい。即戦力としては疑問符が付く。ただ、現役プロも含めて、最速左腕なので、今後の成長次第か。平田は即戦力の期待。ただ、中村紀のように振りが大きめなので、俊足を生かすにはもっとコンパクトにする必要があるかもしれない。基本的には中距離ヒッター。中日にはもってこいの素材だろう。
 
 『シニフィアンのカタチ』の “Prehistoricism” の章を完読。サボり気味だったので遅れてしまった。この章は「自然につくられた物」(natural object)と「意図的に作られたもの」(intentional object)の二者択一を巡る議論で構成されている。意味論と主体の関係論との間で交わされる議論を下敷きにしていた前章の流れを引き継いでいる。意味とは何か、という問いが言語間の関係を巡る問いへと変わっていく “posthistoricism” の枠組みは、 “material” と “representation” を巡る問いへも援用される。
 
 自然に存在する何かを表象するのが芸術だとしたら、フレームは重要な役割を果たす。なぜなら、自然をありのままではなく、それをフレームによって切り取り、その内部に表象されたものを芸術として指し示すのがフレームだからだ。しかし、ミニマリズムと呼ばれる芸術様式は、そのフレームを取り払った。フレームは、観客と作品との関係を規定する芸術の装置であり、観客はその中に意味を見出すことを要請されていたわけだが、フレームを取り払うことで、その関係は崩れる。ここで作品の外側にあった観客の主体の位置は、作品の内側に取り込まれる。つまり、芸術はここで意味から経験へと姿を変えるのである。
 写真はどうか。第一に、写真は “reflection”であって、 “representation”ではない。写真はその機能上、自然に存在するものをありのまま映し出すことを目的にしているテクノロジーだからである。しかし、Cindy Shermanのような写真は、写真そのものが芸術なのではなく、芸術を作り出す媒体として写真をみなす。Shermanは自らが被写体になる。Shermanのとるポーズ(芸術)は、写真によって初めて記録されると同時に、写真に映るために生み出される。しかし、Shermanの実践も、写真そのものを芸術としているわけではなく、あくまで写真は「被写体の見え方」を示すものであって、「被写体の表象」ではない。そこでMichaelsは、フレームに注目する。現実に存在しているものを「反映」するのではなく、フレームによって被写体を切り取り、被写体を知っている観客に違和感を与えるような写真(たとえば、列車全体ではなくその一部を写し、何を撮っているのか一見わからないような写真)は、表象たりうる。そこに映っているのは、被写体そのものではなく、フレームによって分断・細分化された「表象」だからだ。ここでは、被写体が優先しているのではなく、写真が被写体に優先している。たとえば、本のあるページを切り取った写真。この写真を見て本の内容が読み取れるのであれば、写真は再生産のテクノロジーに過ぎない。しかし、写真の中の本の内容を読み取ることができない、あるいは読みにくくなっている場合、被写体である本は指し示す側(シニフィアン)としての特権的地位を失う。指し示しているのは写真である。と同時に、写真は本(被写体)の意味内容(シニフィエ)を消去する。
 ここまでの自然物と芸術に関する議論の背後にあるのは、自然物(被写体)が先にあるのか、それともそれを読みかえて表象に変える人間の目線があるのか、という問題である。つまり、自然物が元来有していると思われる価値(本質)があって初めてそれを読みかえる芸術(表象)は成立している、という “foundationalism” の問題である(と思う)。
 
 次にテクストは「自然に存在するもの」なのか、「意図によって生み出されるもの」なのかという議論に通じる、意味を生み出すのは作者か否か、という新批評の議論へと移る。新批評の読者は作品を作者の意図が意味を生み出すものという前提を否定し、言語の関係が決定するものとして考えた。つまり、言語を使って意図を表現する作者が先か、それとも作者が所属する言語体系が先か、という議論である。17世紀の詩人Marvellの詩の一箇所、 “My vegetable love” をどう読むかで結論は出る。 “vegetable” を今日的に「野菜」と読もうと、 17世紀的に “growing” と読もうと、Marvellの意図とは何の関係もない。読者は “vegetable” という語によって作者が何を言わんとしているか、ではなく、その語がどういう意味かを考えなければならない。ここでMarvellが「野菜」と読ませたいか、あるいは「大きくなる」と読ませたいか、という二者択一は読者にとっては関係ない。要は、意味を産出しているのは誰かという議論に即して考える場合、詩を生み出しているのは作者であったとしても、意味を生み出しているのは17世紀であれ、21世紀であれ読者の選択する言語のルール以外にない、ということだ。かくして新批評は言葉がどこからやってきたかに関わらず、言葉の意味を決定するのは「言語の規則」だと主張し、作者の意図を棄却するのである(しかし、言語の規則を知るためには結局作者の意図に戻らなければならない)。
 しかしPaul de Manは、新批評には「文学の言語」と「自然物」の区別がついていない、と主張する。テクストは石のように「感じる」ものではなく、読者の意図を伴う「読み取る」ものだ。新批評は、精読を通じて、作者の意図には還元できない複数の意味を発見したけれども、結局「読み取る」に属する解釈共同体を作りあげ、それがまるで「感じる」に属するものであるかのように錯覚した。だが、de Manの主張を、「テクストの外にはなにもない」というポスト構造主義の主張を合わせて考える場合、齟齬が生じる。石を「感じるもの」だと考えるのと、石もテクストという「読み取るもの」に含めて考えることは両立しないからだ(脱構築脱構築みたいな)。結局、テクストを生み出すのは作者でその意味を生み出すのは読者であるとしても、テクストが「解釈の対象=意図的に生み出されるもの」なのか「知覚の対象=自然に存在しているもの」なのかという議論は宙吊りのままになる。
 新批評の失敗は「意図的に生み出されたもの」を「自然に存在しているもの」として扱ってしまったこと(テクストの読みに意図が介在することを無視した)。de Manの失敗は「意図的に生み出されたもの」を「自然に存在しているもの」として扱わなかったこと(なんでも解釈できるわけではない。つまり解釈できないものを認めなかった)。Michaelsは、その後のde Manの “Form and Intent” の読みを通じて、“intentional object” と “natural object” という二項対立に「意味」の起源の幻想が介在している、と主張する。de Manはルソーの 「盗まれたリボン」に出てくる “Marion” という単語が解釈不能であることを見出す。それは「自然物」として感じることしかできない。デリダの主張どおり、テクストに設定する読者のフレーム(意味)は、かくして必要だけれども必要だと正当化することのできない「付け足し」(imposition)にすぎないものとなる。新批評のように作者の意図を否定する一方で、言語のルールの介在を特権化することも、かつてのde Manのように、解釈を特権化することもできない。それらは結局、「意味がどこから生まれるか」という意味論に根ざしている(新批評は「言語のルール」、かつてのde Manは「読者」)。意味は必要だが、あらかじめ抹消されている(記号から痕跡へ)。だから、「痕跡」という考え方をもとにすると、テクストの解釈とテクストの経験(知覚)は符合しえない(intentionalとnatural、記号とシニフィアンは折り合わない)。Michaelsが テクストを“intentional object” と “natural object” という問題設定のもとに考察しているのは、意味というテクスト(客体)を限定するもの(主体)は何か、という問題が、やがてテクスト(客体)がどのように読者(主体)を決定するか、という問題へとずれていく様である。テクストの意味が大量生産される以上、それを決定する読者はテクストに自分の痕跡を残すことになる。要はどう読むのか、ということは、おまえは誰だ、ということにつながる(うーん、デジャヴ)。
 テクストの経験はテクストそのものとも符合することもない。なぜなら、テクストの知覚のされ方は、テクストそのもの(object)の機能だけではなく、読者(subject)の機能でもあるからである。ふんふん。さっき見たように、フレームは客体を表象(記号)へと変えた。フレームを取ると、表象は客体=物質(シニフィアン)に戻る。観客はそのシニフィアンの世界の中に投げ込まれる。その瞬間、観客の経験は二次的なものではなく、一次的なものになる(フレームは意味を限定するから、観客より先に意味を産出するのはフレームということになる。今度は意味を指示してくれるフレームがないから、観客はシニフィアンの戯れの中で主役になる)。だから、記号の世界が意味から離れたシニフィアンの世界に変わるということは、なにもテクストという読者にとっての客体だけが優位になるというわけではなくて(テクストが意味から解き放たれる)、読者もまた矛盾することなく優位になる(読者も意味から解き放たれる)。かくして、テクスト(客体)のシニフィアンが注目を集めることと、それを読む読者(主体)のアイデンティティが注目を集める(“posthitoricism”でみたように)ことは、完全に連動している。読者が何を見て何を感じたかということは、すなわち読者のアイデンティティの機能である。
 テクストの意味を解釈する場合、作者に訴えるもの(intentionalist)と言語の規則に訴えるもの(formalist)、そして読者に訴えるもの(affective)の三種類ある。でも、読者に訴えると解釈を否定することになる。言語の規則に訴えると、それを知るために作者の意図を知らなければならず、結局 “intentionalist”になってしまう(intentionalismとformalismの同時否定)。そうした袋小路を脱するのは、de Manの “radical formalism” である。つまり、解釈する対象が何によって生産されるのか、という問い、つまり「意味」を捨て去ることで徹底された新たな形式主義脱構築)である。要は意味論から関係論へ(但しテクスト内部のみの)、機械論的因果律(原因が結果を決定する)から構造論的因果律(重層決定)へ、という流れだな。でも、よくよく考えると、この脱構築派に典型的な意味を否定した新たな精読スタイルは、読者のアイデンティティの問題にも開かれている以上、やっぱり意味を否定した時点で、コンテクスト(歴史とか文化とか)を必然的に取りこむ方向にあったのではないか?独り言の深読み。
 
 続いてdeep ecologyの議論をしながら、基礎付け主義と反・基礎付け主義の間を探って、やっぱり同じような結論(subjectとobject)に向かう。Richard Rortyは自然が自律的な表象のしきたりを持っている(自分を自分で表象できる)という見方を “foundationalism”、いやいや自然は構築物だという見方を “anti-foundationalism” という風に分類している(Rortyは後者の立場)。いいかえるなら、世界はしゃべりかけている、と考えるのが前者で、しゃべらない、と考えるのが後者。最近の傾向だと圧倒的に後者なのだろうけど、Michaelsはその両者の対立が自然に本質はあるか否かではなく、自然は主体か、はたまた客体かというところにある、と考える。要は、人間しか働きかけることはできない、という視点と、いやいや自然も働きかけているのだ(つまり人間と自然との間に相互関係を認める)、という視点の衝突である。Michaelsは後者が優勢だと考える。つまり、自然が働きかけることのできる「他者」であると認識して初めて、それを尊重し、絶滅させてはならない、という倫理が生まれるわけだ。「他者」として認識するということは、相手が自分に働きかける際に根拠となる何か(文化やアイデンティティ)を持っていることを認めることである。Deep ecologistの主張は、自然を人間と同じようにしゃべる存在として考えるところにはない(pathetic fallacyの回避)。自然は人間と同じなのではなく、人間とは違う文化やアイデンティティをもった「他者」なのである。
 しかし、ここで注意しなければならないのは、自然を「他者」として認識するということは自然の中に「意味」を見出すことと同じではない、という点だ。ここでも先ほどと同じように、「意味」ではなく「経験」が優位に立つ。「他者」に意味を見出すということは、「他者」を理解するということである。「他者」を理解した瞬間、それは他者ではなくなる。結局、(反・基礎付け主義のように)人間が自然を意味によって構築することにつながるのである。基礎付け主義は解釈を放棄する。自然の他者としての「文化」や「アイデンティティ」を意味によって解釈(理解)するのではなく、見たり聞いたりして感覚的に経験するのである。あとはデジャヴ。「シニフィエなきシニフィアンは理解するというより経験される」。「脱構築とディープ・エコロジー双方において、世界をテクストに変えるのはシニフィアンの物質性に加わるいうことなのである」。「発話の効果は作者が統制できる代物ではなく、読者が理解するというより自動的に記録する(register)ものである。」「痕跡は意味を持っている記号ではなく効果を産出する」。
 で結局、前章のように懐疑論に向かう。ここまでさんざん意味を否定しておいて最後にMichaelsは、テクストの意味と効果(経験)とが切り離されてしまう、テクストの意味はその効果とは独立している、と述べる。読者がテクストを理解することがテクストの効果である、とその因果関係はわかるけど、意味と効果とは一致しない。来たぞ、脱構築。テクストをフレーム(意味を限定するもの)が外れたものとして見てしまうと、それをなんでテクストとして考えているのかわからなくなる。効果を産出するものとしてテクストを考えると、なんでもテクストになりうる(なんでも言葉に見えてくる)一方で、テクストはどこにもなくなる(言葉が生み出す効果は意味ではない)。テクストの中にたくさんの意味があると考える人の犯す間違いは、痕跡が生み出す無際限の効果と記号の単一の意味とを混同していることだとしたら、de Manがした「適切に理解するなら痕跡には意味はない」という主張はその修正案である。しかし、「テクストの外には何もないという主張が真に主張しているのは、テクストのようなものは何もないということである」。キター。前章と全く同じ終わり方。前章では歴史の終わりに理論が生まれ、理論が解釈を殺してきたけど、結局解釈の死は理論の死で、理論の死は歴史の死みたいな。今回は意味の死はテクストの効果を生み出したけど、テクストの効果は意味を殺して、結局大本のテクストを殺してしまったみたいな。ここまでの流れ的には、qualityがquantityにとって替わられていくんだけど、quantityはqualityがないと結局だめだぞ、みたいな。典型的な否定神学脱構築やな。まあ、意味を殺すと論じることも意味がなくなって批評の力が失われる、というのはよくわかるのだけど。もっと生産的な議論・整理をしてほしい気がする。だって、Michaelsの論自体が、脱構築の袋小路を再演しているような気がするから(いや気のせいでは決してない)。まあ、芸術論、ナショナリズム論、スピーチ・アクト論、脱構築、エコ・クリティシズムなどなどの垣根を取っ払って、大きな流れを見せるというやり方は、だいたいオタク傾向の強い文学者に結構訴えかけるものがあるのかもしれないけど。でも、サイードが言うような意味での「有機的」な論ではない。結局つなげるだけつなげといて、あとで全部まとめて、はいさよなら。あー、疲れた。次は “Historicism”。