読了

 やかんにチョークか。中学の頃、カレーにチョークの粉を入れられて、気づかずおいしく食べた先生が次の日休んだ、っていう思い出があるけど。あの先生大丈夫だったんだろうか。最近、テロの恐怖とかのせいで、ちょっとしたいたずらがやたらと大きく報道されすぎているような気がする。消火器撒いたやつもしかり。あの程度のやんちゃは昔はどこでもあったような。それだけ、メディアもニュースがないんだろ。

 薬害訴訟のニュース。最近、川田龍平を見ない。あのテンションは非常にうっとうしかったが、いなければいないで結構さびしい。小林よしのりも言っていたが、左翼の運動に巻き込まれて、もう運動家になってしまったから、メディアにうっとうしがられているのだろうか。疑問。

 『シニフィアンのカタチ』読了。ディコンストラクションと新歴史主義の関係、Toni MorrisonとStephen Greenblattとの関係など、なるほどと考えさせられる箇所は多かった。『帝国』をモデルに考えた点も納得した。結局、歴史や意味といった超越的レベルの問題が瓦解し、ネーションを基盤とした価値が壊れ、グローバル化の流れにさらされた。 “metaphysical” な形(超越的な形)ではなく人間の身体に権力が刻印される “biopower” の時代に、縦の関係をもたらす歴史は “equality” をもらさない。デリダの「亡霊」や『帝国』のモデルを手がかりに、Michaelsは書くということの可能性を考えた。「共通言語」を夢想するJudith Butlerを退け、universalismではなくglobalismを推奨するMichaelsは、『帝国』のように “metaphysical” ではなく “material” (“Empire is materializing”)に存在する新たな問題を書くことを “biowriting” と呼ぶ。意味なきエクリチュール、信仰なき政治の時代を生きる我々は常に自らを横の関係に開き、その連帯を閉ざす力と戦わなければならない。超越的立場から横の関係を規定する歴史はすでに終わっている。
 と、結局Michaelsの論は、『帝国』の主張にほぼ沿う形で収斂していく。 理解ではなく経験、意味ではなくシニフィアン、記号ではなく痕跡、質ではなく量、といった一連の流れは、脱構築を一種の原動力にして、あらゆるものを開放に向かわせる。こうした流れは超越的なものを切り崩す「否定神学脱構築」から、横の壁を崩す「超越論的な」脱構築へと向かう最近の傾向を示しているのかもしれないが、あまりに現実感がない。所詮は理論だから、という言い訳も通用するかもしれないが、やはり現状追認の感は否めない。個人的には、主体を現前させる「主体の位置」が問題だと思う(変化する主体ではなく、戦略的に固定化された主体)。あらゆるものが循環しつづけることが超越的な位置を作らず、主体を動かしつづける倫理だ、というドゥルーズ=ガタリの「ノマディズム」等を無批判的に援用したMichaelsの主張は、一見様々な問題を解決しているように見えて実際は問題を見ることを回避しているにすぎない。循環を止めて考えること、あるいは循環の中に動かないものを見出すこと(主体の位置を見定めること)が、批評の力を取り戻す唯一の方法ではないだろうか(ソシュールアルチュセールの批判にも関わらず、記号を分節させて考えたように)。超越的なものはそうした循環の中で息を潜めているかもしれない。実は真の横の関係の構築はMichaelsのような見方(実はサイードがいうところの “wall-to-wall criticism”?)によって皮肉にもさまたげられているだけかもしれない。結局、『帝国』や『シニフィアンのカタチ』のような議論は、理論的正確さを推し進める一方で、「我々はまだ十分に貧乏ではない」といったようなプロレタリアートあるいはスラムの視線を過剰に美化する現実離れした夢想に至る。理解をすることは「同化」することではない。理解をすることは「意味」を特権化することではない。理解は他者と共通のルールが存在する可能性を信じることである(と思う)。超越的に抑圧する信仰(イデオロギー)ではなく、超越論的なコミュニケーション言語(翻訳言語)を構築することのどこが超越的なのか。世界すべてを結びつける共通言語(Butlerがそんなことをいっているとは思えないのだが)は、確かに超越的かもしれないが、局所的な翻訳によって積み上げられた共通言語は果たして超越的なのか。
 最近、理論的な正確さを推し進めるあまり、右も左も向けない窮屈な言論界になってしまったように思う。何とか主義や何とか批評も大変結構だが、もう少し地に足のついた議論をしないといけないのではないだろうか。知的恍惚を得ることに夢中になって、実は無意味な議論を積み重ねてはいないだろうか。ポストモダン論や文化批評など特にそうした傾向を感じる。かといって、今でも印象批評をしたり、倫理だといって教条主義に走る一部の守旧派も問題だと思う。