宇多田ヒカルとコミュニケーション

カープの野村が引退。「野球は楽しいだろ」とスタンドの子供たちに語りかける姿に涙。山本浩二と抱き合う姿に涙。順調に現役を全うしたわけではない苦労人の哀愁みたいなものを感じた。スタンドは超満員。見るべきものがあれば、まだ野球は十分集客力がある。スター選手を引き抜くような資金力はないが、生え抜きの個性的な選手を育てる下地がカープにはある。観客が4番とエースの野球を見にきているわけではないことはもはや明らかだ。新井の豪快さ、前田の渋さ、大竹に一瞬だけ垣間見るスター性、ラロッカのミニマム感、「赤ゴジラ」というネーミングに見られるパラサイト感覚、大器晩成(?)の河内、黒田の半か丁かの調子、何より今年新人王候補のミッキー君(引退)……。まだまだ見るべきものは多い(はず)。

ハイデガーとハバーマスと携帯電話 (ポスト・モダンブックス)

ハイデガーとハバーマスと携帯電話 (ポスト・モダンブックス)

ハイデガーとハバーマスと携帯電話』を読む。ケータイの広がりとコミュニケーション哲学の問題をドッキングして、実に分かりやすい論を展開している。訳もライトで良い。実は大澤真幸の解説が一番分かりにくかったりする。
著者ジョージ・マイアソンによれば、ケータイのモバイル化という現象がコミュニケーションの適用範囲を広げていく一方で、このモバイル化の現象は「真の」コミュニケーションの可能性を逆に狭めている、という。ハバーマスによるなら、コミュニケーションは本来我々が生活をしていく中で相互理解を深めるための手段である。理解というからには、当然分かり合えない局面も出てくる。つまり、コミュニケーションはディスコミュニケーションと常に裏表の関係にありながら、それでも相互理解のために積み重ねられていく行為なのである。しかし、そうした「真剣なコミュニケーション」は結構めんどくさい。だから、そういう真剣なコミュニケーションとは別に「システム化された」コミュニケーションも必要になる。これは理解ではなく、ある意味方程式のようにそこに当てはめれば答えの出るものだ。何かのサイトに登録したとき、あるいは本をネット上で買ったときに届く自動的なメールのように、紋切り型のシステムもコミュニケーションが多様化していく中では合理化の為に必要となる。この本の著者によれば、モバイル化は「真剣なコミュニケーション」の範疇に入るものを消去し、全てを「システム化」されたコミュニケーションへと導く現象である、という。ケータイは「真剣な」コミュニケーションを消去し、欲しいモノへと直裁に接続するてっとり早さ、つまり「効率性」が売りである。反対に哲学者たちは、欲しいモノとの間にコミュニケーションを続ける過程で生まれる「理解」を求める。コミュニケーションがモバイル化によってある種のテクニックに傾倒し、そこに非合理な反目が生じる余地は少なくなっていくかもしれない。しかし、それでも「真剣なコミュニケーション」について論じることは、通じ合うだけではなく理解しあうために重要だ、というわけだ。
大澤真幸の解説は、マイアソンの盲点をつく形で展開される。大澤はケイタイが時空間の断絶を一気に消去する「近さ」のメディアである、という。ケイタイをかけたり、それでメールをしたりするのは、そのメッセージの内容に価値があるのではなく、コミュニケーションをとることそれ自体に価値がある。大澤は、そこにある種の転倒を見る。つまり、コミュニケーションというのはもともとずれを孕むものだったのに、ケイタイはメッセージの内容ではなく、メッセージを送ることによって誰かと繋がっているという感覚を演出し、コミュニーションのずれを消去する。ケイタイは距離があるゆえに重ねる意味があるコミュニケーションを、距離を無視するためのコミュニケーションへと、コミュニケーションの概念自体を変更した。大澤の説を採るなら、ケイタイの登場は、会話の内容とは関係のない、ただ繋がっているという感覚をもたらす新しいコミュニケーションのあり方をもたらしたということになる。
ここでふと思い出したのは、宇多田ヒカルの “automatic” である(第一感としては、もうどこかで誰かが論じていると思うけど)。

七回目のベルで受話器を取った君/名前を言わなくても声ですぐ分かってくれる/唇から自然とこぼれ落ちるメロディー/でも言葉を失った瞬間が一番幸せ/嫌なことがあった日も/君に会うと全部フッ飛んじゃうよ/君に会えないmy rainy days/声を聞けば自動的にsun will shine/It's automatic側にいるだけで/その目に見つめられるだけで/ドキドキ止まらない/Noとは言えない/I just can't help/It's automatic /抱きしめられると/君とparadiseにいるみたい/キラキラまぶしくて目をつぶるとすぐ/I feel so good/It's automatic

何でこの歌が売れたのか、ちょっと分かる気がする。それは宇多田ヒカルの歌声の素晴らしさ(私はあまり信じてはいないが)やリズム感のよさ、日本語の歌にはない英語的な抑揚といった、彼女が日本の音楽シーンに与えた影響(以後、雨後の筍のごとくコピーが出現した)とは別の感覚である。ここで注目したいのは、この歌詞の中に頻繁に現れる意味内容を伴わないひたすらな「近さ」である。「名前」ではなく、「声」という音で相手を認識し、「言葉」を欠いた沈黙の瞬間に幸せを感じ、実際に会っているわけではないのに会っている感覚を味わう。ここに現れているのは、電話の中で恋人に抱きしめられるような疑似体験的な近さである。そして、その感覚は話者同士が理解しあっているかどうかとは関係なく「オートマティック」に訪れる。2番では、「コンピュータースクリーン」の中に相手は現れるのだが、モバイル化に晒されたコミュニケーションは、埋めがたい遠さではなく、当然の近さの中に現れる。ユーミンなどに代表されるニューミュージックの恋愛が、成就するか否か、はたまた相手がどこにいるなど、コミュニケーションの距離感を前提としていた一方で、宇多田ヒカルの世界はそうした越え難い距離感をあっさりと乗り越える。この簡単な近さこそが、おそらく無意識的に若者が共有している現在の人間関係なのではないだろうか(だからこそ熱狂的に迎えられた)。もっとも、ヴァーチュアルな世界に染まれば染まるほど、この安易な近さを前提とする余り、実際の人間関係はディスコミュニケーションの前に簡単に頓挫することにもなる。それは、あまりに近すぎる人間関係が生んだ逆説的な遠さなのかもしれない。やっぱ、携帯なんていらん。そもそも何でそんなしょっちゅうメールしたり、電話しないといけないのか、全く理解できない。まあ、これはモバイル化から取り残された古代人の独り言に過ぎないのかもしれないが。