三段論法の陥穽

ビン・ラディン死亡説が流れている。パキスタン地震に巻き込まれたという。この人すでに何回も殺されている。でも何回殺されても、噂話のなかで生き返ってテロリズムという姿の見えない敵の象徴的存在になる。生きているのか死んでいるのかは、実は関係ない。文字通り「亡霊」だ。あるいは「浮遊するシニフィアン」か。志村けん死亡説とはちょっと趣が違うなー。

買い物行こうとちゃりんこに乗るが、あっさりチェーンが外れる。外は暗く、直すのもままならない。しょうがなく歩いていったが、行きはよいよい帰りは怖い。何を思ったか5000円も買い物して、帰りは結構きつめの筋トレになった。でもレジの女の子が抜群にかわいかったので許す。私でもフリッツ・フォン・エリックばりにつぶせそうな小顔だった。

最近、観月ありさの露出が増えたように思う。なんか、いままでの抜けキャラから脱皮して、どうやら大人路線狙いのようだ。きれいになった気はする。個人的には、牧瀬理穂にやられているのだが。

最近売れるとすぐ漫才をやらなくなる。ネタを考えるひまがなくならからなんだろうが、中川家なんて暴力事件以来めっきり勢いがなくなって、漫才やればいいのに、なんて思ったりする。南海キャンディーズも漫才しかないだろ。猫ひろしぐらいのテンションがあれば別だが。あるいは、劇団ひとりのように人前でうんこ漏らす度胸があれば別だが。若槻千夏とか『大奥』の小池栄子の方が面白いのも考え物だ。

いよいよ秋華賞牝馬三冠の掉尾を飾る今回の秋華賞は、オークス1・3着馬がいない寂しい顔ぶれだが、春の変則2冠馬ラインクラフトオークス2着馬エアメサイヤの一騎打ち模様で名勝負の期待。力的にはこの2頭がぬけているが、しかし明日はどうも雨が残るようで、波瀾の要素も。穴なら先行馬。デアリングハートエイシンテンダーエイシンテンダーはまともまらありえないだろうが、大雨ならあるかも。いずれにしても、上位二頭ともがこけることはないだろう。見るレース。

詭弁論理学 (中公新書 (448))

詭弁論理学 (中公新書 (448))

寝る前に『詭弁論理学』をぱらぱら。基本的に言葉のパズルみたいなものなんだが、割と頭の体操になる。体操しすぎて眠れなくならないように。研究者もどきの身としては、「媒概念の虚偽」だけは気をつけなければならないところ。例えば、①Nothing is better than my wife ②A penny is better than nothing ③Hence a penny is better than my wifeという三段論法の “nothing” が媒概念にあたる。要はこの三段論法が成立するためには、媒概念が共通していることが絶対条件なのだ。一見すると、 ①nothing>妻 ②1ペニー>nothing ③1ペニー>妻、すなわち1ペニー>nothing>妻という公式は成立しているように見える。しかし、①のnothingは「妻が一番だ」ということを強調するための修辞(nothingを使う必然性はない)であり、②のnothingは「1ペニー」に関連して「金銭的に何もない」という明確な意味を有している(nothingを使う必然性がある)。つまり、①のnothingは厳密には比較のために使われているのではなく、「妻」以外の存在を打ち消す役割を果たしており、他方②のnothing(無一文)は「1ペニー」と比較するために使われている。③を成立させるために使われているnothingは①と②とで異なっているため、③の成立は阻まれていることになる。
 媒概念に関連して。論文などでよく作者のいったことと作品に書いてあることを結び付けているけど本当に一緒だろうか、と思うことがある。あるいは歴史とテクストも然り。コンテクストを無視して、言葉狩りを電子テクストなんかでぱぱっとやっていると、うっかり関係ないものを結びつけてしまいかねない。Intertextualityを使う人など特に要注意だろう。よっぽど注意しないと、同じ黒人でも片方はジャマイカン、他方はアメリカンというような初歩的な差異すら無視してしまいかねない。個人的には、そういう危険を犯さないためにも相同性を探すよりも差異に注目した方がいいと思う。何よりも三段論法(哲学のような普遍的な命題を扱うのに向いている)に頼らない発展型の論文(問題を立てるために問題を立てる)が一番いいと思うが…。