サヴァイヴァル力

秋華賞は、エアメサイアが完勝。ラインクラフトは4角で早めにいってしまったのが響いた。エアメサイヤは届きそうにない位置から差し切った。母エアデジャヴーが届かなかったG1をもぎとった。とはいえ、1800メートルを超えると牡馬の層は厚いので、主戦場は両馬ともマイルになるか。来春、牝馬限定G1が新設されるそうなので、少しは活躍の場は広がるだろうが。オークスシーザリオ、3着馬ディアデラノビアらが無事に帰ってくれば、牝馬戦線も面白い。
 
 最近の子供は体力が落ちている。なんでも朝ご飯を食べる子供が減っているらしい。というのも、親に朝ご飯を食べる習慣がないからだという。道理で体力がないわけだ。おかげで、今の子供は上手に転ぶことができず、頭から転ぶらしい(手をつくことができない)。子供の教育をどうするか以前に、親の教育をどうしたものか。
 暴れる子供も多いと聞くが、体罰がなくなったからだというわけでもないようだ。どうも集団生活の基礎がないようだ。幼稚園では自由時間といって自由にのびのびさせるのがはやっているらしいが、規律は先生が教えなければならない。要は遊んだ後が先生の出番なのに、先生は遊ばせるだけ遊ばせておいて何もしない。それで集団生活の基礎ができるわけがない。部活はいいと思う。特にチームプレイのスポーツはいいと思う。体力はつくし、集団の中で自分の位置を確認し、バランスを取る力をつけることができる。小学校の早い段階で部活をやらしたらいいんじゃないか。もっとも群れるのが嫌いな私が、果たしてこんなことをいう資格があるのかどうか疑わしいものだが(あんまり学んでない)。
 勉強についてはどうか。個人的には、高校までの勉強というものは、どうやって新しいものに立ち向かうかを学ぶ、つまり「勉強の方法」を学ぶものだと思う。専門に進むのでなければ、方程式なんか意味ないし、光合成の仕組みなんて披露する場面はないし、山に篭って焼き物作りをするのであれば英語も日本史も世界史も必要ないだろう。そういう勉強の中身ではなくて、短期記憶の能力が高い子なら単語帳を作るとか、長期記憶に長けている子なら反復して読み書きするとか、実践タイプならひたすら問題を解くとか、理論タイプなら自分で独自のノートを作ってまとめるとか、そういうノウハウを学ぶのがやっぱり長期的には生きてくるのだと思う。応用力は基礎をつけることによって出てくるけど、基礎をどうやってつけたらいいのかわからないという子供って結構いる。先生はそういう「サヴァイヴァル力」(斎藤風)を伝授しなければいけないじゃないだろうか。少なくとも自分はそんなものを学んだことはない。自分で遊びを考えて作ったりして自然と学んでいった。今は遊びのルールはテレビゲーム然り、カードゲーム然り、全部大人が考えてくれる。こういう世の中だから、大人は「ルールの作り方」を子供に教えてやらないといけない。
 というのも、「どうやって資料を探したらいいんですか」、とか、「どうやって本や論文を読んだらいいんですか」、とか聞いてくる院生がいるからだ。今はインターネットが発達していくらでも無限に探すことができるし、本を読んだら読んだでその中にもいっぱい色んな本が詰まっている。本や論文の読み方だって、本の著者がどうやって色んな本を読んでいるか、という模倣から学ぶものだし、その中で自分の読み方を探していくものだ。それができないということは、本を読んでいないに等しい。本を読むということは一冊読んで完結するようなものではない。次の本を読むために本は読むものだ。そして、同時に今まで読んだ本を無数に頭の中に並べて本は読むものだ。読書は、今まで読んだ本を(比喩的な意味で)読みなおす作業でもある。疑問が生じれば、実際に読みなおしてみてもいい。そうやって、前後左右に右往左往しながら読書も研究もやるものだと思う。読まなければならない本なんてない。全部を語っている本なんてないからだ。足りなければ他の本で補えばいい。決定版を求めているようでは、話にならない。情報は溢れているけど、使い道を知らないと何の意味もない。今の先生はこんな当然のことまで教えなければならないのだろう。先生ではないけど、先生って大変だな、と小児病(ピーターパン症候群ともいう)の私が生意気にも同情する。