靖国問題

 おでんを作る。しかし、みりんと間違えて酢を投入し、取り返すのに苦労する。結局、料理酒としょうゆでごまかしたが、若干変な味が残る。例によって大量に作ったので、しばらくはこの味に慣れないといけない。
 
 私は行っていないが、先週末に日本アメリカ文学会が開催された。なんでも「マスターベーション」の発表は大入りだったという。しかし、内容は物語内容の疑問解決に終始するもので、文字通り発表自体が「マスターベーション」だったという噂も。うちの大黒柱はそれに付随して開催された某学会で発表し、概ね好評だったという。古株が権力で牛耳るのが大きな学会の悪しき慣習だが、どうやら新しいものをやる若手も渋々ながら許容されてきたようだ。富山太佳夫が『文化と精読』の「境界線の文学」の章で主張するように、文学界の権威再生産の構図は深刻だ。知識を重ねることが学者の理想という文学制度の歪な構造は、必然的に凝固した年功序列を生み、柔軟性を失った知識偏重の擬似研究を大量生産してきた。どれだけ文学オタクであるか、という一生を費やして競われる文学カルトQの勝者は、実は昔のことはよく分かっても周りで何が起こっているのかすらわからないド近眼人間に他ならない。批評とは何か。若手はめげずに「マスターベーション」を克服して、正しい「性交渉」の在り方を確立しないといけない。がんばれ大黒柱。俺は家事をがんばる。

 小泉首相靖国参拝。各国の批判は必至。良くも悪くも初志貫徹の人だな。
 参拝は小泉首相の意思では、二度と戦争を起こさない、と誓うため。しかし中・韓は、軍国主義への回帰、つまりまた戦争を起こす前兆と考える。ここにはperformativityの観点から見たずれが生じている。参拝を中・韓が「発話内行為」(act in saying)と捉えるならば、大した問題にはならないだろう。過去の日本の過ちを確認する参拝は、日本敗北の歴史的コンテクストをなんら揺るがすことのない謝罪に相当する。つまり、参拝を繰り返す行為がアジアを戦争に巻き込んだ事に対する反省としての「不戦の誓い」という言明を反復強化するからだ(同時に「敗戦国日本」の言説も再生産される)。しかし、中・韓は違う。彼らは参拝を「発話媒介行為」(act by saying)として捉える。参拝は繰り返されるたびに、「敗戦国日本」という彼らの保持したい歴史的コンテクストは連続性を失い、彼らは絶えず「反日」というスローガンを噴出させなければならない。参拝は、中・韓にとって戦後日本を仮想敵として構築した(彼らの)歴史の連続性を揺るがす「触発する言葉」(excitable speech)として顕れる。小泉も中・韓も共に戦後の「平和」や「不戦」という歴史的コンテクストを共通して持っていながら、そこに靖国参拝が絡む限り、決定的な齟齬が生じる。
 しかし普段、靖国が問題になることはない。靖国が問題になるのは小泉が参拝することによってである。一般人が参拝しても問題にはならない。小泉という国家の代理=代表(representation)が(私人/公人という区別に関わりなく)参拝することによって問題は生じるのである。靖国がいかなる意味を有しているか、はここでは問題にならない。小泉という国家の代理=代表が靖国に参拝するや否や、そこには必然的に日本国家の物語が懐胎するからだ。小泉にとってその物語は「平和国家」日本の物語かもしれない。しかし、そこに「国家」というファクターが介在する以上、誤読は免れ得ない。中・韓は、「平和国家」日本国の底流を成す「戦争国家」の像を幻視する。少なくとも、小泉が参拝することによって、何度となく「国家」という変数が靖国に加わる以上、日本国の在り方は問われつづけることになる。そしてそれは、必然的に靖国と小泉の連続性に「戦争国家」を見出す中・韓の歪な国家形成の在り方をも暴露し続ける。靖国問題は、連続している(と想像されている)国家の断絶した姿を日・中・韓へと相互参照的に浴びせかける契機である。靖国問題は、そうした意味で最も正しい「国際問題」(international issue)かもしれない。