ベルクソンをちら見

  『メタファーはなぜ殺される』、『文化と精読』、『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』併読。リテラシーの言説。沼第3章。

 「リンカーン」なる番組を見た。かなりの芸人つぶしの番組だ。追い込まれて強いやつとだめなヤツの差が歴然としている。キャイーン天野はぜんぜんだめだ。大喜利ではカットされまくっていた。意外とウドはいける。「さまーず」は二人ともよし。松本はハードル上げすぎ。「うちのおばあちゃん、あれおじいちゃん?」、(新しいプロレスの技)「ちら見」は結構面白かった。

フーコーの系譜学―フランス哲学「覇権」の変遷 (講談社選書メチエ)

フーコーの系譜学―フランス哲学「覇権」の変遷 (講談社選書メチエ)

空間の生産 (社会学の思想)

空間の生産 (社会学の思想)

The Condition of Postmodernity: An Enquiry into the Origins of Cultural Change

The Condition of Postmodernity: An Enquiry into the Origins of Cultural Change

 『フーコーの系譜学』を暇つぶしに読む(本当は暇などない)。ベルクソンサルトルフーコーという哲学上の流行を辿りながら、それぞれの哲学の接点と相違点を確認する試み。いかんせん、哲学(現代思想ではない)は話が壮大過ぎて現実味がないのでいつもなんとなくしか分からないのだが、この本は比較的やさしく現代哲学の要点を解きほぐしてくれる。もっとも、サルトルフーコーは比較的なじみがあっても、ベルクソンは超難解だ。これまで何回か原著も含めてトライしているが、ことごとく跳ね返されてきた。おそらくモダニズムをやる人にとっては必須のことなのだろうが、改めて自分の専門が違うことに胸をなでおろす。今回確認できたのは、ベルクソンの哲学が、アンリ・ルフェーブル『空間の生産』やデヴィッド・ハーヴェイ『The Condition of Postmodernity』でのモダニズム論をなぞるように(とは書かれていない)、空間の時間化に支えられている、という点だ。実際に動いている状態を言葉はすぐに切り取って空間化してしまう。そうではなく、ありのままの動的な心のあり方を捉えようというのが「純粋持続」のコンセプトだった。それからもう一つ確認できたのは、明らかな機械文明への失望感である。知性を物質から心の中に取り戻すことで、やはり画一化し固定化された世界を「純粋持続」の中に取り戻そうというベルクソンの意識が伺える。でもこれって、時代状況的に大きな齟齬を生むことじゃないか。ベルクソンモダニズム文学は空間の時間化(意識の流れ等)をやろうとしたけど、時代的には機械によって時間を空間化(フォーディズムのベルトコンベヤーなど)する流れが進行していった。やっぱり、ベルクソンサルトルハイデッガーなどの実存主義的潮流に敗れ、モダニズムの中心地であるヨーロッパの文化が空間的広がりを前面に捉えたアメリカズムによって衰退する(言い過ぎか)のは、過去・現在・未来が平面的に並存するポストモダンヘゲモニー化がだんだんと勢いを増すのと呼応していたのではないか。そうした意味で、ベルクソンジル・ドゥルーズが読み直したのは、結構象徴的な出来事かもしれない。と、自分の世界に飛んでいったが、この本自体は死ぬほど面白くない。哲学専門の人は面白いかもしれないが。
 とはいえ、ポストモダンとか帝国主義とか植民地主義とか、便利でいいけど、結局その中の葛藤とか齟齬とかせめぎあいみたいなものを(議論ではなく、言葉の使用において)無視してしまう。言葉が大きすぎて、何か言っているようで何も言ってない議論になりがちだ。そういう言葉の濫用という現状を批判的に捉えて、バランスをとることが必要だろう。とはいえ、まあ困った時にこういう言葉は確かに便利だけど(自戒も込めて)。