ラカンはやっぱりワラカン

Fさんと飯を食う。長居してしまい申し訳ない。出たら出たでいろんな苦労があるもの。なかなか出れない苦労もあるけれど。この世界、大変だ。

『偶発性』は放置。気合がないと読めん。『メタファー』からはヒントをもらう。各章の指針を練り直す。どうあがいても三章がつまらない。カリブ海関係の一次資料探しは必須の情勢。四章は多分面白くなる。あとは神頼み。しかし、いずれにしても提出はムリ。自分の力以上の大きな絵を書くとこうなる。所詮、自分の尻は自分で拭うしかない。


ラカンとポストフェミニズム (ポストモダン・ブックス)

ラカンとポストフェミニズム (ポストモダン・ブックス)

ラカンとポストフェミニズム』。統一的で連続した女性主体とそれに対する家父長性の圧制を扱ったフェミニズムが、ポストモダニズムの波にさらされたとき、女性主体内部の分裂と断絶が起きた。女性という主体は、常にすでに人種や階級、セクシュアリティ等の変数によって縦横断されていることがかくして明々白々となったのである。この流れは通常「ポストフェミニズム」と呼ばれる。本質主義から構築主義へ、イデオロギーからヘゲモニーへという地滑り的変遷は、フェミニズムの領域を男性/女性の非対称な二項対立関係から「女性」、あるいは「女性的」という言葉の背後に潜む権力関係へとコペルニクス的に転換させた。本書の要点は、ポストフェミニズムが自家薬篭中のものとした「構築された主体」という認識が、実はフェミニスト最大の標的と目されてきたフロイトラカンの理論に見られる女性の認識とある種の相同性を有している、というところにある。もっとも著者は、英米圏のウーマン・リブの背後で、「エクリチュール・フェミニン」の主導者たちがポストフェミニズム出現以前に「斜線を引かれた主体」を前景化した精神分析理論を積極的に奪用してきた点を見逃しはしない。(ポスト)フェミニズム精神分析理論は当初から類縁関係にあったのである。
 ところが本書は、極めて明確な解釈の枠組みを有しながら、いざ本論に入るや、ラカン理論の出口のない迷路で読者を悩ませる。晦渋かつ衒学的な暗号の数々は、門外漢のものにはおよそ理解できるものではなく、およそ入門書としての域を越えている。細かい部分までは到底理解できないが、「斜線を引かれた主体」という考え方には納得する。アルチュセールの理論で行くと、イデオロギーの主体として構築されない可能性を予め排除しかねない。ラカンの場合、主体は予め不完全なものとして構築される(言い方を変えれば、欠如や不在によって主体は構築される)。「小文字の他者」は主体にとって欠如のない完全な姿を表象し(鏡に映った自分)、「大文字の他者」は主体が欠如を埋めようとする条件を確定するが、主体にその欠如自体が意識されることはないため、斜線を引かれ、欠如自体が隠蔽される。象徴界における欠如として表象されるもの(対象a)、つまり象徴界において主体になる際に必然的に生じる欠乏こそが主体の欲望の対象であり、主体が主体であるための条件となる。
最も重要な性差についてはどうか。ラカンの理論では欠乏と欲望の両方として機能するシニフィアンであるファルスが重要な役割を果たす。男性は「ファルス(ペニスではない)をもつこと」欲望する主体として現れ、女性は「ファルスであること」を欲望する主体として構築されるという。男性は自分自身がファルスという支配者である、と想像する。しかし、結局男性はファルスの機能に屈服する(去勢される)ことによって普遍的主体となる。しかし女性は、ファルスの機能に対して必ずしも屈服しない。女性は、ファルスの機能によって男性のように普遍的な集合としてまとめられることはない、というわけだ。男性は「ファルスであることを欲望する女性」を欲望することで自分の欠如を埋め合わせようとする(女性を対象aとして欲望する?)。女性は、ファルスの機能に服従することで去勢をうけるが、同時にファルス機能が働く象徴界とは別次元の大文字の他者とも結びつく。女性はここにおいて、ファルスの世界とは異なる基準で生きる可能性を見出す。それが仮装である。つまり、欠如であることを隠されている大文字の他者と結びつく女性は、欠如をヴェールで覆い、それを隠すのである。ただし、女性が仮装するのは男性の「ファルスをもつこと」という欲望とは何の関係もない。女性は男性に普遍的なものとして現れるかもしれないが、女性自体は普遍的ではないからだ。女性には女性を普遍的たらしめるシニフィアンが欠けている。ゆえに仮装という手段をとらないと象徴界に現れることができないのである。男性はファルス機能のもとでのみ主体化される。しかし、女性はファルス機能に完全に従属しているわけではないので、ファルスが機能する象徴界の論理にパフォーマティヴなレベルで逆らうことができる。男性は大文字の他者の存在(本源的な無)を知らず、対象aへの接近のみを繰り返す(普遍の挫折)。女性はファルスに従属するとは限らないため、大文字の他者との関係を結び、象徴化を装う(普遍の不可能性)。なんとなく分かったような、分からないような。要するに男女とも違う形で普遍への道を閉ざされている(本質的な性差はない、構築的な性差があるだけだ)ということか。
「解説」で竹村和子は、「本書の貢献の一つは、[ラカンの性別化の公式を]フェミニズムの見地からわかりやすく解説したことである」などとのたまっているが、ラカン理論の入り口にいつまでも立ち尽くす凡人には全く分かりやすくない。ただ、竹村の「超」解説は、こうした意味不明の世界を批判的に歴史化してくれる。ジュディス・バトラーの言語行為論に肩入れする竹村にとって、本書で展開されている精神分析的なジェンダー論はスラヴォイ・ジジェクの理論にも通底する(?)ある種のミソジニーを感じさせるのであろうか、ジェンダー批評における数度の精神分析理論の回帰は、竹村にいわせれば、父権制社会への叶わぬノスタルジアにほかならない(ファルスは実体ではなくとも、ペニスの換喩ではないか)。竹村はラカン記号論曼荼羅ボロメオの結び目」の第4項に「資本」を代入し、ラカン理論をマルクスアルチュセールとの結節点として、すなわち女性を抑圧する資本とともにフェミニズムに対するバックラッシュとして働く精神分析理論を内在的に批判する引き込み口として利用しようと提唱する。バトラー=竹村によるジジェクラカン理論への最後通牒とも読める。ジェンダー理論と精神分析理論、共闘できるようでなかなか両者の溝は深そうだ。