新歴史主義考 その2

 千葉ロッテが優勝した。リーグ戦2位のチームが二年連続優勝したことについて制度の欠陥を訝る向きもあるが、31年ぶりの優勝の価値をなんら貶めるものではない。ルールはルールである。ボビー・バレンタインは強力なリーダーだし、チームの中に「俺のプライド」とかいうやつは誰もいない。プロの集団だった。これから本年から創設されたアジアシリーズという大きな目標が加わった。ロッテにはぜひ頑張ってもらいたい。カープのブラウン新監督がボビーのような素晴らしいリーダーであることを祈りつつ。

Remembering Generations: Race and Family in Contemporary African American Fiction

Remembering Generations: Race and Family in Contemporary African American Fiction

 黒人文学気鋭の研究者Ashraf RushdyのRemembering Generations (2001)を読んでいる。前著も素晴らしい力作だったが、今作も素晴らしい。「新奴隷体験記」の研究者としてはおそらく第一線に立つ人だろう。アメリカでの評価は詳しくは知らないが、Gates、Baker、Gilroyらの後続を走る代表的論客になるはずである。今作では、「亡霊」として回帰する奴隷制に焦点を合わせ、歴史・社会・文化的側面から同時代の時代状況と新奴隷体験記の関係を綿密に読んでいる。私が最も尊敬する批評家である。

 昨日は、新歴史主義の基本概念である歴史の物語論の陥穽について考えてみた(歴史学と歴史哲学は違う)。今日は、文学と歴史学の境界線はなくなったのか、という疑問について考えてみたい。結論はもちろん「否」である。
 歴史学はいまでも変わらず「事実」を重んじる。もちろん、それが「物語化」の影響を蒙るものである、というのは大きな教訓として残ったはずだ。現に数値化できるものを最優先に置くコンセンサス学派のような客観至上主義は影を潜め(今それをやるとBell Curveのようにとんでもないことになる)、証言や文学的資料をも採用する幅広い主客折衷の批評が行われている。結局、物語論は「歴史哲学」の領域で起こったものであり、たとえそれが理論的に正しくとも、公共性を考えた場合、物語論は妥当性を欠く。下手をすると、ただの歴史ヲタク(あるいは詐欺師)になってしまう。だから、歴史学者は今でも「事実」を捨てたりはしない(「真実」でない以上、物語化の侵食は避け得ないが、公共性を忘れることはない)。
 文学はどうか。文学は極端なような気がする。歴史を扱う際に、すべては物語だ、という正統的な新歴史主義者か、物語は事実(真実に限りなく近い)という下部構造を持つと考えるネオコン的旧歴史主義者のどちらかが大勢を占めるような気がする。結局、新歴史主義という大きな転換期を前にして、文学者は「歴史哲学」を利用して自己正当化してしまった感が強い。歴史学は少なくとも「歴史哲学」から多くを学んだ。しかし、文学は「歴史哲学」から物語という贈り物をもらったにせよ、「歴史学」からは何も学んでいない(言い過ぎか?)。文学と歴史学は、「事実」、つまり公共性という観点からいって、大きく分け隔たれたままである。文学研究において、事実と物語の関係が問われることはほとんどない。
 違う分野の生産的な例を挙げよう。文化人類学の例である。歴史学の「事実」に相当するのは、文化人類学の「フィールドワーク」である。1960年代から70年代にかけて、ラテン・アメリカに出かけた文化人類学者たちがアメリカ政府のスパイ活動に携わっていた事実が暴露されて大問題になった。「植民地主義の侍女」ならぬ「新植民地主義の侍女」というわけである。そのころから、文化人類学にもポストモダン化や自己批判の嵐が吹き始める。徹底的に文化人類学を歴史化し、フィールドノートを文学的に脱構築し、フィールドワーカーを一旅行者として読みかえていったのである。「フィールドワーク」という文化人類学のマストアイテムが、廃棄されるかのような風潮だった。現にフィールドに行かない文化人類学者も多くいた。本末転倒である。しかし、今現在「フィールドワーク」はなくなっているか。否。今でも文化人類学者はフィールドワークに出かけている。しかし、その内実は劇的に変化した。フィールドワーカーは自分のことを記すし、インフォーマントの選択理由や彼らと自分との関係についても詳細に記す。そしてフィールドと自分たちの文化的な距離を自明なものとはしない。「フィールド」自体も変容し、(欧米から見た)文化的辺境やプリミティヴな場所だけではなく、欧米のメトロポリスも「フィールド」に含められるようになった。「事実」と「物語」の関係は多分にダイナミックなものとして文化人類学に現れてきている。
 文化人類学は、文学理論や歴史学から多くのものを学んだ。しかし、それでも文化人類学を貫いているものは「フィールドワーク」である。なぜなら、「フィールド」にしか文化人類学的「事実」はないからである。文化人類学自己批判を重ねながら、事実一元論からようやく事実―物語の弁証法的研究へと辿りついた。
 さて、新歴史主義的文学研究は物語一元論を捨てないのか。新歴史主義がもたらした新たな知的興奮が「歴史哲学」からのものだけだったとすると、それはバランスを欠いている。もちろん、新歴史主義者の中には物語と事実との関係を丁寧に見定めようとする識者もいるかもしれない(私の世界が狭いだけかもしれない)。しかし、新歴史主義が「主義」化したとき、紋切り型の物語一元論によって、確実に文学は公共性を失う。あるいは、新歴史主義がネオナチ的修正主義の跋扈する場となり兼ねない。だからこそ、文学は歴史学からも「事実」、あるいは実証性の重要性を学ばなければならない。物語論からいった場合、文学と「歴史哲学」の境界線は確かに消滅した。しかし、文学と「歴史学」の境界は依然厳然として存在する。