ホールと「ホール」を分節化する

 ちょっと遅めの起床。天気悪い。雑用済ませてファミレスで読書。若干チェス。
 イチロー国民栄誉賞を、との声。小泉が取り消す。馬鹿馬鹿しすぎて何もいうことがない。「このチームでMLBを戦いたい」(イチロー)。発想が「チーム・アグリ」と一緒ジャン。
 

スチュアート・ホール (シリーズ現代思想ガイドブック)

スチュアート・ホール (シリーズ現代思想ガイドブック)

 読了。改めて思うが、ホールは「使えない」批評家だ。いっていることに一貫性はないし、よく前言撤回する。関心はどんどんずれていくし、何よりも単著が一冊もない。どうやって彼の考えをまとめていいのかすらわからない。訳者の小笠原博毅が「狸親父」と評する所以である。
 しかし、ホールはそれでも魅力たっぷりの批評家だ。凝り固まった教条主義とは一線も二線も画し、自分の誤りを正す。いつまでも手垢に塗れた概念に固執しないし、何よりも種々雑多な論文集に最も輝く論文を載せる。どうして彼の考えをまとめる必要があるだろうか。これこそホールが「狸親父」である所以である。
 本書ではホールの最も有名な概念であるcoding/ decodingを始め、大衆文化に対する態度、グラムシとの距離、文化主義と構造主義の折衷的利用、アルチュセール批判、アイデンティティの政治、ニュー・エスニシティディアスポラの称揚と批判、抹消記号の下に置かれたポストコロニアル、といった現代批評におなじみのテーマが軒並み陳列されている。しかし、それらを定義して用いようとしても無駄である。それらは、それらを通して考える行為に対してのみ開かれている。それこそがスチュアート・ホールの正しい使用法である。
 それでも、通して読んだ感想として、若干古びた感じがするのは気のせいだろうか。ホールの自伝的な部分で得るものはあるにせよ(文化主義/構造主義のあたりは面白かった)、理論的な部分でそれほど新しさを感じることはない。特に「ニュー・エスニシティ」という移民体験を軸にした概念は、問題含みである。この概念は、皮肉なことにイギリスという「想像の共同体」の内部に、その使用を限定されなければならない。なぜなら、少なくともアメリカにおいては「エスニシティ」を始めとする移民の言説は、ネオコン仕様の人種無視(race-blind)の言説とほとんど見分けがつかないものとなっているからだ。アメリカの場合、支配者側をヘゲモニーの力学の中に引き込むには、まだ「人種」の方が適している。
 また「ニュー・エスニシティ」が「ディアスポラアイデンティティの位置性と文脈性を前景化する」と、流動性が安定的なものを炙りだしていくその戦略性をいかに肯定してみたところで、移動や流動性を是とする主体を特権化していることに変わりはない。ポスト・ツーリズム時代において、「移動できる」ということは抑圧的にも働くのである。「移動できない」ということの方が逆に戦略性を秘めていたりもする。特にしばしば移動する主体はPaul Gilroyの場合のように男性であることの方がはるかに多く、ジェンダーの問題からいっても、こうしたディアスポラ理解は限界を抱えているといわざるを得ない。もっとも、ドゥルーズとは異なり、Angela Davisのいう"anchor" と "rope" のように、移動の経路の中に位置を主張することを決して忘れないホールの戦略性はもっと評価されてもいい。
 いずれにしても、ホールの論文で読んでいないものもまだ数多く残っている。これらの問いを念頭に、ホールを「使用可能な」批評家として読んでみるのもまた一興であろう。