科学とポストモダン

 薬の副作用で若干まどろむ。読書。
 

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

 いつかは読まなくちゃと思いつつ数年が経過、ようやく本日読了。科学者アラン・ソーカルがフランスの人文系学術雑誌にトンデモ論文を投稿したところ見事に掲載、それが出鱈目な内容であることを本人が暴露するにいたり、一気に科学者とポストモダン哲学者たちとの間で論争となる。本書は、科学者がポストモダン思想家の科学の誤用を指摘し、それが権威主義的で無知蒙昧であることをただひたすら暴いていく、という一種の暴露本である。
 確かに、ラカンやクリスティヴァ、ドゥルーズ=ガタリといった思想家たちがわけのわからない数式や科学的概念を振り回していたこと、そしてそれらがことごとく科学的な見地から見れば誤りであろうことは、本書を読まずとも想像がつく。ポストモダンや理論を心底嫌っている人にとっては、それらを「裸の王様」と名指す本書は格好の武器となるだろう。しかし、彼らが新しい地平を必死に切り開こうとしていた、という点はこうした批判の後でも認めなければならない。新しい思考に新しい概念はつきものである。大きな物語がなくなろうとしている、またはなくなってしまった時代に思考した(ポスト)モダン思想家たちは、新しい状況を記述する語彙を探していたのである。
 また、哲学者たちを糾弾する一方で、著者たちがポパーやクーンといった科学史家たちからの攻撃をかわそうとしている点も見逃すべきではない。過剰な相対主義懐疑論は避けなければならないが、科学といえど完全に無菌状態の中で行われているわけではない。何かしらの影響関係は必ず蒙っている。著者たちは、科学が研究によって得る公式や原理などの「真理」を認識論的見地から雄弁に擁護する一方で、それらがなぜ研究されるに至ったのか、なぜ研究として成立しうるのか、という外在的要因に対しては完全に沈黙する。しかし、科学は「再現可能性」という研究内容の厳密さから逃れられないと同時に、「公共性」という他者の目からも逃れることはできない。ポパーやクーンが提示した概念は多分に過激なものだったであろうが、この論争を通じて科学者もまた足元を見直さなければならない(著名な韓国の教授のように)。
 この本を再評価するに当たり、権威を突き崩すはずの現代思想が形成される時期に「科学」というある種の権威が必要とされた、という妙な撞着語法的事態は念頭におくべきだろう。構造主義ポスト構造主義の関係を「科学」という接点から見直すことも可能かもしれない。批判的再検討が必要だろう(もうされているだろうけど)。もちろん、この本は現在の現代思想批判には使えない。いきなり「決定不能性」や「シニフィアンの戯れ」からスタートする批評(現実界的立場から「正しいものは何もない」と断罪するような批評)は、もはや批評とはなり得ないからである。「疑う立場」と「信じる立場」との関係を捉えることが重要である。その意味では、今かつてないほど「信じる」ことが重要な時代だといえるのかもしれない。と同時に、理系と文系とがもっと歩み寄ることができたら、とも思う。