バトラーの痕跡
- 作者: サラサリー,Sara Salih,竹村和子
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2005/12/01
- メディア: 単行本
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- ヘーゲルからはどうあがいても逃げられない。ヘーゲル哲学の内部で思考するしかない。
- バトラーは<現実界>を拒絶する。代わりに象徴界の内的矛盾を追及しているけれども、<現実界>を認めちゃった方がすっきりするのでは。「シニフィアン/シニフィエなんて分けられねーよ」とソシュールに文句言ったアルチュセールのような理由なのか。確か『偶発性…』で、バトラーは<現実界>を象徴界の外部だと誤読していたような気がする。でも、『権力の心的生』に至って、主体が言説によって完全には構造化されていないと主張する、つまり「精神の残余」をバトラーが認めるにいたり、限りなく現実界を認めるところまで来ているような気もする。いずれにしても、ジジェクとバトラーでは主体の捉え方が全然違う。
- Bodies That Matter は読まなければならない。Gatesともかなり関連していそうだし。Gatesの場合、race and superstructure学派からの脱却を狙ってレトリック分析を展開していき、黒人の用いるレトリックそのものがSignifyin(g)というperformative actである、と結論付けていった。しかし、GatesのSignifyin(g)は、先行する黒人のテクストや共時的に存在する白人的な制度に対して働くが、一方でその成果は黒人アイデンティティの生存あるいは保存という限定的なもので、支配的な言説や制度を変えるといった積極的な政治性はないような気がする。
- 自己再帰性には限界がある。あるコンテクストを立ち上げ、主体を構築する呼びかけに応じて、その呼びかけが構築する自分の主体を自己再帰的に突き崩す戦略は、一回性のものであるか、あるいは同じように従属的な立場に立つものの仲間内でしかその効果を共有できないのではないか。つまり、その戦略が成功したとしても、(例えば)「レズビアン」という言葉が持つ否定的な力ないしはその言葉が発せられるたびに引用されるコンテクストをまるごと変容させることはできず、その成果は「レズビアン」の仲間内だけの自己満足に留まってしまうのではないか。例えばniggerという言葉がある。「[中略]『黒んぼ』という言葉には疑問符がついている。その言葉はある種の文脈である種の話者によって使われれば、やはり言語による侮辱となる」(204)とある。niggerという言葉が差別語となるのは、黒人以外の者が黒人に対して発した場合である。ところがniggerは、黒人の仲間内ではむしろ仲間同士の親密さを表現する言葉として使われたりもする。この例が意味しているのは、黒人同士ではバトラーの自己再帰的な戦略が成功し、niggerの意味が変わってきた(?)ということだろうが、異なる人種の間では誰も試みない、あるいは試みても上手くいかなかった(?)、ということも示している。やっぱり、可視的な差異として表われる人種の場合、この戦略を人種間に適用するとかえって黒人を貶めることになってしまわないだろうか。どんなに文化的構築物といったところで、黒人の現実はまずその人種構造の中にしかない。その人種の構造に従った自己再帰的発話が、その構造を脱構築するとはとても思えないのだが(理論的にはよくわかる)。やはり、憎悪発話の発話者、そしてその発話者が持ち出すコンテクストを共有する集団をバトラーの戦略に巻き込んでいくのは現実的にはかなり難しいのではないだろうか。舌足らずな感じですんません。
易しく説明してくれているが、これでバトラーを理解したことにはならない。それに最近のバトラーは、普遍性の問題にもコミットしているから、こうした疑問もバトラーの残り香から生じたものに過ぎないのかもしれない。
『禁煙ファシズムと戦う』はR30指定だと勝手に解釈し先送りするが、この本、面白そうだ。
- 作者: 小谷野敦
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 2006/03/24
- メディア: 単行本
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