氷山の一角

 読書、その他。早朝ランニング、と書いている時点で空しくなって来るが、またもや悪天候のため中止。こうやって人は物事をあきらめていくのだろう。今日はアジの金平風。干ししいたけを入れると旨いです。
 大学生がレポートを書くための注釈書だろうけど、いろんな小説や分野を簡潔にまとめた上に問題点まで指摘してくれているので、新しい冒険を始めるときには、そして脳力が減退しちゃって登場人物の名前すら思い出せないというときには結構便利。何冊か持っています。http://www.sparknotes.com/
 
 最近、アメリカで不法移民に対する新法が問題になっている。ただでさえ低賃金の仕事を更に低賃金でこなす不法移民は、経営者側にとっては理想的な搾取の対象である一方で、合衆国内で最低レベルの生活をしている人にとっては限られた仕事を奪っていく憎き敵役でもある。あまり詳しく追いかけていないので、推論でしかないのだが、おそらく政府がこの法案を立法した背景には、テロに対するセキュリティ上の問題があるのだろう。様々な思惑が重なる不法移民排斥法案。しかし、今回不法移民たち自らが声を上げて、抗議活動を開始したことを耳にするとなにやら複雑な感情が沸き起こってくるのを禁じえない。不法移民は、不法移民と呼ばれる時点ですでに不法と認定されている、つまり法の外部に排斥されている存在なのに、なぜ彼らに対する新しい法が必要なのか。しかも、法の外部にいるはずの彼ら自身がシュプレヒコールを上げながら、不法移民排斥法案という法に対して反対している、という矛盾。合衆国憲法や不法移民排斥法案には条文化されえない、不可視な法の網の目に彼らが絡み取られているのはいうまでもない。目に見える法だけを批判しても、この問題を解決することにはならない(もちろん目に見える法を批判するのは当然の第一歩)。法は、可視的な法とそれを隠れ蓑にした不可視の法とが手を取り合う総体的な権力として構造化されているからだ。
 今回のデモにヒラリー・クリントンが参加したという。おそらく次期大統領選挙を睨んでのパフォーマンスだろう。彼女がブッシュよりはまともな感性を持っていることは間違いない。というより、歴代大統領でブッシュよりもバカな大統領などいないだろう。ヒラリーは、ブッシュよりはまともな大統領になるだろう。と、考えるところまではいい。しかし、ヒラリーが合衆国史上初の女性大統領となることで全てが劇的に変わると期待するのはあまりに無謀だ。可視的な法、つまりヒラリーが主導的に立法する法律や彼女の政策は劇的に変わるかもしれない。 "the axis of evil"や "the rogue countries" といった失言はなくなるかもしれないし、閣僚にもミサイル実験に成功してにやっと笑うような法外な感性の持ち主はいなくなるだろう。しかし、それで「劇的に変わった」ことになるだろうか。その変化は、法の「氷山の一角」の部分に起こった(ようにみえる)取るに足らない出来事なのではないだろうか。
 黒人女性初の国務長官となったライス国務長官を指して「彼女は黒人ではない」という発言を、とある先生から聞いたことがある。Afro-centrismの排外主義的な一面を迂闊に議論に持ち込んでしまった結果の単なる失言だと思い聞き流したが、この発言は実のところ法の性質を的確に捉えている、とも言える。ライスが自分を黒人女性として認識するかどうか、あるいは国民がそう思うかどうか、というのは国務長官としての職務を全うする上で何の問題にもならない。彼女が黒人かどうか、という個人的な問題は法の「氷山の一角」に過ぎない。彼女は一家庭人としては黒人なのかもしれないが、国務長官としては国家の法の網の目を構成する一要素に過ぎない。ゆえに、ブッシュ政権の失態のみならず彼女自身の失態も彼女自身に「責任転嫁」するだけでは不十分だ。彼女の固有名に隠れた「国務長官」という立場を、ひいてはその立場を必要とする国家のシステムを批判しなければならない。さもなくば、黒人女性を国務長官にもってきただけで何かリベラルな雰囲気を演出しようとしたブッシュの衆愚政治を再生産するだけだ。
 メディアの批判は概して個人に集まる。小泉批判、永田批判、そしていずれは小沢批判。ヒラリーだって大統領になれば批判されるだろう。まるで政治家ひとりひとりに個性があるかのように。もちろん私人としての彼らに個性はあるだろう。しかし、公人にあるのは、個性ではなく機能である。私人としての魅力や暗部にばかり注目すると公人としての機能を見失う。小泉があれほどの支持を受けたのは、彼が総理大臣の役割を期待以上に果たしたからではない。彼が総理大臣の公的な機能を私的なものとして表象したからである。「氷山の一角」ばかりを見ていても何も変わらない。「氷山の一角」はその向こう側を見つめる手がかりに過ぎないのだから。そして、何の話だったか忘れそうになるけども、不法移民の法に対する抗議は、一面では「氷山の一角」に対する抗議にすぎないのかもしれないけど、その抗議活動自体が彼らの不法な立場を、ひいては法の不法性を浮き上がらせるという意味で「氷山の一角」の向こう側を立ち上げるperformativeな有効性を持っているのかもしれません(Butlerに乗っかれば。ちなみにパフォーマンスではありません。ヒラリーのはButler的な意味でのパフォーマンスなのだろうけど)。でも、その抗議活動を受ける側、そしてそれをスペクタクルとして眺める側が果たしてそれをperformativeなものとして受け取ってくれるのか。performaivityの政治の有効性は、やはりそれが機能する場である公共圏の整備に深く関わっているのでしょう。
 それから、「氷山の一角」の向こう側にある法の不法性を追及するためにも、総選挙で全てが変わると考えるのはやめましょう。当たり前ですけど、選挙は法によって法制化されているわけですから、そこから生まれるのは国家の一機能を担う国会議員に過ぎないのです。柄谷行人的な撹乱(『トランスクリティーク』の最後らへんで柄谷は余分に選出された国会議員をくじ引きで最終的に決定するのはどうか、といっている)がこの国家の再生産に対して現実的に関われるかどうか甚だ疑問なので、とりあえずのところ「氷山の一角」の向こう側を見ようとするくせを刷り込んでおきたいものです。自分も経験したことがあるsweating systemについて書くつもりだったのだけど、書いているうちにこんな感じになっちゃいました。どうもすんません。
 ちなみに柄谷の分類でいうなら、自分は全然移動しない人間なので明らかにカント側の人間です。カントにはなれませんけど。
 

トランスクリティーク ― カントとマルクス

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