愛国心の交差点

 早朝ランニング。久しぶりの晴れ。といっても、晴れ間が覗く程度で、曇りといったほうがいいかもしれない。とまれ、ここぞと布団を干す。
 
 毎日新聞朝刊の「論点」で「愛国心」問題の交通整理が為されている。広田照幸グローバル化/ボーダーレス化が進行する現状に鑑み、改正論がボーダーを国民に強いる古い体質に基礎を置いている点を問題にし、主として改正論者が称揚する国家像が日本にやってくる外国人に対して排他的に働く均質空間に他ならない、と批判している。対して桜井よしこは、教育勅語教育基本法の両輪をもって教育がなされた時代を理想化し、戦後日本人の理念的側面を担うべきだったのに廃止されてしまった教育勅語を「祖国愛」で代替し、教育基本法一本の「片肺飛行」に終止符を打つべきだ、と主張する。また、佐藤俊樹はこれらの対立を傍観する立場から、「愛国心」論争が日本の教育の問題点や短所を挙げ連ね、「教育が悪い」と問題の諸相を局所化し、結局それを改善するという名目の既得権益者(教育関係のお役人、評論家、教育委員会など)への利益誘導の役割を果たしている、と喝破する。そして結局、問題を作ることでそれを解決するための利益を生み出し、問題に現場で携わる一般的な教師が割りを食う羽目になる、と佐藤は市井に目を向けさせるのである。
 執筆者たちに平手打ちを食うことを厭わず乱暴に分類するなら、広田がリバタリアニズム、桜井はコミュニタリアニズム、そして佐藤はどちらにも与せず、議論そのものに対してしらけている国民の立場を代表しながら議論の周辺を眺める傍観者、といったところか。どの立場を採ってもいいと思う。けれども、交通整理を前にして、右折も左折も直進もせずに、ただ立ち止まり、抜け道を思案する、というのも一興だと思う。
 ざっとみて、佐藤の市井の立場に立つ議論が、もっとも共感を覚えるところではないか。そもそもこんなこと議論してどうなるの。「悪い」と指摘されたところに公金がつぎ込まれる。そして、また大した成果も上げられないうちから、新たな「悪い」ところが掘り出されていって・・・・。政治の世界は暴露に次ぐ暴露、それからカネに次ぐカネじゃないの。結局、一般人には関係ない。さしずめ、佐藤の立場は、はるか上空で戦われている空中戦をただただ眺める竹やり部隊、といったところか。全然関係なければまだいいのだけど、たまにスカッド・ミサイルだのパトリオットだのが誤爆するからたまらない。戦いに参加して戦況を変える力があればまだいいが、なにぶん竹やりじゃとても成層圏まで届きっこない。それなら、誤爆も怖いけど無視して日常を送りましょう、ということにもなる。佐藤の論点が優れているのは、政治の世界や言論界では決して代表されることのない庶民の冷めた意識を代表しようとしているところにある。しかし、佐藤が駄目なのは、庶民のそうした冷めた意識を代表することで、皮肉なことに今の小泉政権を下支えしている非政治的な政治を再生産してしまっているところにある。傍観者の立場はいつでも正しい。なぜなら全く責任がないからだ。そんな庶民の味方は、結構ウルトラマンみたいにビルを壊しまくる無責任なヒーローであることが多かったりもする。交差点を素通り「直進」、いかがなものか。
 桜井は、辺り一面敵だらけ、けれど飄々と篭城戦を戦う。知識人の世界はお国に対して文句をいう立場の人が大勢を占めているので、概して桜井のような昔気質の人はマイノリティになってしまう。しかし、お国のために戦った人たちや戦後汗水垂らして高度経済成長を支えた団塊の世代の方々は、桜井のような情緒や道徳を尊ぶ知識人を熱烈に歓迎する。日本は個人主義に走りすぎている、終身雇用や一億総中流の神話は崩れ去ってしまったけど、日本はまだまだ文化的に優れた国だ、もう一度日本人の美徳を取り戻さなければならない、うんぬん。桜井の立場が優れているのは、日本人が走り続ける中で代償として失ってきたものをもう一度掬い上げようとするところである。戦後、被害者に含まれるどころか逆に邪魔者扱いされてきた退役軍人の物語を発掘する仕事に代表されるように、桜井は日本国の内なる空白に危機感を抱き、それを埋めようとしてきた。「愛国心」も内なる空白の一部であろう。桜井の目的には私も共感する。空白をどうにかして埋めることはできないまでも処理しなくてはならない。しかし、手段が間違っている。現代の「今・ここ」にある空白を過去の「かつて・あそこ」にあった(はずの)事物(というより観念)で埋めるのは単なるノスタルジアである。もう昔の日本ではないのだ。「右折」するのも気が引ける。
 広田の立場は、若者がもっとも共感できるものだろうし(一概にはそうもいえないか)、何より世界情勢に一番則った賢いやり方である。インターネットや携帯電話が普及し、世界各地に旅行できる。巷にはフリーペーパーが溢れ、翻訳大国の日本では世界各国の著作が日本語で読める。ボーダーなんてもうないのだから、今更上から押し付けられたボーダーなんて無意味だ。これからはグローバルに世界中と交流しなくちゃならないんだから、今頃国家に対する愛情なんていわれたってピンとこないっす。広田の議論に通底しているのは、こうしたマルチチュード的なグローバリズムである。確かにもう「国家だ、国民だ」、といってお上からトップダウン的に縛り付けられる時代じゃない。これからはボトムアップ型の政治をやっていかなきゃならない。そんな時代の人心を法律で縛るなんて、時代錯誤もいいところだ。本当にそう思う。しかし、ボーダーは本当にないのか?外国に行くにはパスポートがいるし、日本にいる限り日本の法律が適用されるし、外国に行けばそこの法律に縛られる。あのno borderを地で行く森巣博だって、作家紹介の欄には「オーストラリア在住」なんて付け加えられ、国家の型枠をはめられる。ボーダーは緩やかになったとはいえ、まだ厳然として存在する。広田は殊に日本にやってくる外国人や在日の人々に対して配慮しているように思えるが、ボーダーの中で常にある種の連続性を強いられてきた国民は配慮されないのか。同質性は他者に対する暴力として働く。同質性の復権は、グローバル時代には似つかわしくない逆行的な行為だろう。しかし、同質性に穿たれた空白を何かで補完しようとしない限り、細かく細分化された個人同士、集団間の合意は形成されえない。合意がなければ、せっかく日本にやってきた外国人と共生するのは難しくなる。合意なき世界というのも危険な気がする。
 「愛国心」を批判するのは容易だ。しかし、細分化されていく世界の中に不器用な形であれ合意を見出そうとする努力は必要だと思う。もちろん、その合意を「愛国心」の法制化のように上から押し付けるのは好ましいことではないが、今回の広田の議論に関する限り批判が先にたって「愛国心」に対する対案が見えないので割り引かざるをえない。批判としては正当だが、何も考えずに「左折」するのもちょっと怖い。
 交差点上で右折も左折も直進もしない通行者なんて、交通整理する側からすれば迷惑千万極まりないことだろう。もしかしたら一番無責任なのは、後ろに押し合い圧し合い順番待ちしている他の通行人のことなど一切構わず、交差点でいつまでも立ち尽くしている私のような立場なのかもしれない。けれど、交通渋滞の元凶たるこんな交通違反も、時にはお許し願えるのがこの日本の寛容さというものではないでしょうか。3つの道が用意されていたからといって、それをただ進むのでは芸がない。そんなひねくれ者がいてもいいではありませんか。もっとも「抜け道」はまだまだ見つかりそうもありませんが。