からだはどこにある?

 早朝ランニング。背後からじいさんばあさんにブッコ抜かれる。さわやかに挨拶されるが、心中穏やかではない。ざわわ。ダイエットとは別個の目標を見つけた、そんな気がする。みとれ、いつか抜いたる、と口では威勢がいいが、いかんせんありゃ凄いスピードだったなー、とへこみ気味。


からだはどこにある?―ポップカルチャーにおける身体表象 (成蹊大学アジア太平洋研究センター叢書)

からだはどこにある?―ポップカルチャーにおける身体表象 (成蹊大学アジア太平洋研究センター叢書)

 部分的に読了、っていうのは読了とはいわないけど、まあ読了。嫁の研究室にあったので失敬して読んでみたけど、結構面白い。大学院生が何人も参加しているし、挑発的な論考が多い(といっても全部読んだわけではないですが)。向こうの院生のレベルは高いなー、と若干呆れもする。序章でもいわれているように、それぞれの論者が扱う領域はばらばらなようにも見えるけど、それをバトラーがしっかり繋いでいる。なので、全然ポップカルチャーに興味ない人でも、バトラーに興味があれば話についていくことは可能だと思う。いろいろ悶々と考えてきたことが、この本を触媒とすることでなんとなく像を結んだように感じたりもする。でも、本来序章にくるべき総論的性質をもった三浦玲一の論(身体論の争点の概括と問題提起)が最後に来ているように、身体の問題は結論が出るどころかまだまだ問題含みの模様。
 マドンナの論(ちょっと肯定的に評価しようとしすぎでは?マドンナが「黒人になりたい」という時点で、越境よりも境界線の強化へと傾いているような気がするのだけど。最後辺りの猛ダッシュ競歩ぐらいのペースで見たい)やロックについての論考(ロックがロック的身体を生み出す、というのは面白いが、音楽の場合、歌詞よりも音そのものの方が重要だと思われ。歌詞がいいというのは、あくまでも音を気に入った上での副次的産物では。音楽は、他の媒体では受け入れられないような内容(歌詞)でも受け入れられてしまったりするところが面白いと思うが。そこらへんの比較検討を期待)も大変面白かった。そんなポップカルチャーの冒険的な分析があるかとおもいきや、カット・アップ技法の恣意性と作為性の揺れに注目したバロウズ論は極めて硬派。最後あたり、全部バロウズという一作家の問題に収斂していくのがちょっと残念。ロス・マクドナルド論は、短いけどもの凄く詰まってます。静的な親族関係という形で構造化される男性の物語と変幻自在の身体を持った存在として現れる女性の物語との関係を、ハードボイルド探偵小説のジャンル論と絡めて考察。
 と、あんまり書き過ぎると長くなるのでやめましょう。とまれこの本、「筆者はエルヴィスは観ていませんが、JXLは観ました」とかキャプションのキャプション(?)をつけてみたり、「以下の部分では〜ご注意下さい」とネタバレに注意を促したり、といろんな意味で親切。言葉遊びでもオタク自慢でもないポップカルチャー論、良書です。