セレブの世界

 早朝ランニング。前日の疲れが残っているせいか、体が重い。今日は一日だらだら過ごすことに。昼はうどん屋、その後ドリンクバーとチョコスフレケーキをお供に読書。義兄夫婦よりお皿を頂戴する。感謝。
 

セレブの現代史 (文春新書)

セレブの現代史 (文春新書)

 『セレブの現代史』(海野弘、文春新書)読了。
 最近の週刊誌やテレビをみていると、どこもかしこもセレブだらけ。杉田かおる奥菜恵のセレブ婚はどうやら失敗に終わったようだけど、それでもセレブ婚は終息に向かうどころか加速を続け、山口もえやフジのアナウンサー千野志麻あたりがしっかりと玉の輿をゲットし続ける。でも玉の輿婚とセレブ婚って何が違うのでしょう。そもそもセレブって一体?思えば、ミッチーvsサッチー論争あたりから芸能界の雲行きはだんだん怪しくなり、職業セレブ、というお方がデヴィ夫人叶姉妹あたりを皮切りに続々テレビに出てくるようになった。ふと気付けば、あたり一面セレブだらけ。特に芸のないセレブであること、つまりはセレブな生活をしてそれをみんなに公開すること、それがお仕事というお方が業界と巷を賑わせるようになった。でもでも、世の流れに取り残された人もセレブのライフスタイルを追っかけ回している人も「ところでセレブって何?」と問いかけられると案外何も言えないのではないでしょうか。そこで海野弘のご登場です。
 『セレブの現代史』はアメリカを中心に1970年代頃から手の届かない高嶺の花「スター」からみんなのアイドル「セレブ」への移行が行われた、と主張する。それまでの「スター」は、それこそ煌びやかに漆黒の夜空を飾る星たちのように、真似しようとしても真似できない近寄り難さを持っていた。「スター」の権威を保持し、その利用によっていつみても変わらない絶対的価値を再生産するハリウッドのようなスターシステムがその裏にはあった。管理は、裏を返せばスターたちの私生活の管理、つまりは彼らから一切の生活感を奪うことで最大限の効果を発揮していたので、もちろんスキャンダルはご法度、スターはいつ見てもスターであることが求められていたわけです。
 セレブはその真逆、つまり私人と公人の立場をどれだけ混同しているか、というところに価値はある。つまり、私生活を隠すことで公的な立場を引き立てるのではなく、セレブに求められているのは、私生活をいかに公的なものとして提示できるか、ということになる。日常が商売になるわけです。もちろん、セレブというからにはそれはそれは豪華な私生活なわけですが、私生活を隠すスターのときとは違って大衆はそれが手に入ると思ってしまう。そういうわけで、大衆はセレブにスノビズムを投射し、セレブの方は自分の生活(ファッション、インテリア、家、化粧品などなど)を消費者に間接的な形で切り売りする。セレブの世界は、実はセレブ対消費者という階級的な構造を利用しているのだけども、その階級上昇のチャンスは日々のテレビの中にありふれているからチャンスは平等にある。スターのような俳優や歌手になるというのは実に難しいけれども、セレブの生活を真似することぐらいならお金次第でどうにかなる。セレブのビジネスはこうした大衆の見たいという欲望にきっちり答え、というより過剰に答えることで、公私混同のイメージの世界のなかに大衆を巻き込んでいく、というところがミソなようです。
 でもでも、セレブの暴露された私生活が本当の生活なわけがない。彼らだって排泄ぐらいするし、化粧取ったら実はかなりヤバいすっぴんだったり、草餅が好物だったりするわけでしょう(あ、でも誰かさんはセックスビデオが流出していたりしてましたけど)。僕らが見せられているのはあくまでも演出された私生活なわけです。過剰に見せているように見えて(おうち公開とかディナーの公開とか)、実はそれはいっぱい欠如しているというわけです。「スター」の場合、私生活が隠されることで偶像の背後にある実像を信じることができていたけど、「セレブ」は全部見せちゃう、あるいはないものまで見せちゃうことで全部をリアルに偶像化してしまうので、大衆は参照点を失ったハイパーリアルの世界に包まれてしまう。実像なんか想像する必要がない。だって全部リアルなんだもの。というのがどうやら海野弘のいうセレブの世界の本質のようです。
 セレブな生活感を演出する旅番組やグルメ番組が流行り、素人参加型番組(テレビに出ている時点で素人ではありませんが)「キスイヤ」が芸能人の告白番組に変わり、ヴァーナルの番組や深夜番組では「私も使っています」的なセレブに溢れている。セレブの時代についてまとめるとこんな感じなのだろう。
 

 私たちは、自分で、のぞき穴をのぞいているつもりだが、その穴は、偶然にあいているわけではなく、のぞくように仕掛けられた罠なのだ。それはメディアによってあけられた穴なのであって、私たちのものではないのだ。
 私たちは、のぞきの時代に入る。だがそれは、コインを入れると、一定時間だけ見られるような遊戯マシンであって、時間がくると切れる。それに誘われて、次々とコインを注ぎ込まなければならない。
 私たちはヴィジュアルな消費文化の中にいて、見ることに呪縛されている。 (237)

文学者の末席を汚すものとして付け加えるなら、自伝や伝記の研究がこれから面白くなるだろう、と勝手に想像した(今までも面白かったのだろうけど)。セレブの時代の伝記は、教訓や偉大さを学ぶものではなく、(同じセレブとしてではなく)同じセンスを共有するものとして微妙な親近感を覚えるものになる(なっている)はずだから。見たいという欲求にただ答えるセレブ装置の一部としてではなかったら、たかだか30年ほどしか生きていないベッカムの伝記なんかが世に流通するわけがない。しかしこの本、もうちょっと推敲してしっかり書いて欲しかったなあ、やっていることは面白いのに。書き下した印象が強い。新書だからいいのか。