日の丸弁当の記憶

 こまごましたものを買出し、掃除など。特に何もない一日。
 HERO'Sを観る。あんまり面白くない。しかし、いつまで曙の「正念場」は続くのか。痩せる気はあるのか。なによりも勝つ気はあるのか。2,3発殴ってクリンチの連続。膝を狙えばすぐに倒れるのに、ドン・フライも演出家だね。KIDの秒殺が一番の見せ場か。総合格闘技もだんだんマンネリ化してきた感じがある。いつまでもつか。中量級も意外にタレント不足。
 
 

帝国日本の英文学

帝国日本の英文学

 非常に真摯な本である。実直に実証作業を積み重ね、論理の飛躍を許さない。その真摯さゆえに、読み手を選ぶ本かもしれない。無論、怠惰ゆえに論理の飛躍を日々身をもって体現するかのような日々を送る私が選ばれているとは思えない。加えて、私に日本文学の知識も帝国日本に関する見識も一切ない、という事実を詳らかにする今この瞬間に、私がこの本の読み手として相応しいかどうか、などという愚問が存在すらしないということも付け加えなければならない。そんな「含意されない読者」である私に残されている可能な試みといえば、本書で展開されている議論の正確さを追跡し、事実関係を具に洗い出す、といった日本文学や<英文学>の専門家が担うべき作業ではなく、著者の問題意識の深さと鋭さ、そしてその意識の刃が対象から逸れてたちどころに著者自身に、そして我々読者に跳ね返ってくる様を目撃し、記すことぐらいである。
 まず表紙に注目されたい。これ以上ないぐらいの閑静な佇まいを前にして、多くの読者はそのまま頁を繰り、中身を確かめるべく先を急ぐだろう。しかし、私がこの表紙と対峙して感じたのは、ある如何ともし難い懐かしさである。なんであろう、ああ語るに落ちる、それは日の丸弁当である。高校時代、サッカー部に身を置いていた私は、朝からカレーを2杯喰らい、昼食の一時間前にパンを貪り、部活前にカップラーメンをすすり、夕食をあっという間に平らげる、俗に言う食べ盛りの若者だった。そんな大食漢だったものだから、昼食の弁当も当然のことながら普通ではない。普通の弁当では一時間持たない。育ち盛りの餓鬼の腹をいかにしてもたせるか、悩める母は思案した。結果生まれたのが、弁当箱の九割をご飯が占める(残りは冷凍食品のおかず)見事なまでにシンプルな日の丸弁当である。御飯は腹持ちがいい。少なくとも2、3時間は持つ・・・。
 ごほん。話がかなり蛇行した。しかし、少なくとも「日の丸弁当」の記憶は私の意識を『帝国日本の英文学』の表紙の前に鎮座させ、私を擬似記号論的分析へと向かわせてくれた、という点で付記すべきことだったのである。ただし、見給え、見事に日の丸ではないか、というところで終われば、日の丸弁当の記憶もたちどころに屑籠行きの有資格者の列に加わるのだが、事はそう単純でもない。白地に赤の日の丸を成しているものは、「の」である。「と」ではない。「の」と書く行為は、「と」と書く場合と違って著者に大きな責任を強いる。「と」であれば、「と」を跨ぐ両者の関係は並列であり、両者の類似性と共に差異を予告していることになる(手っ取り早くgoo辞書で「と」を引けば、「(並立助)体言またはそれに準ずる語に付いて、二つまたはそれ以上のものを並べあげるのに用いる」とあり、例として「君―ぼく―は親友だ」「犬―猫を飼う」が挙げられている)。「と」は複数の言葉の関係を極めて無害な形で示し、その関係を特別な結束として表象するには補助的な説明を要する。説明書きが後ろに続かない本のタイトルのような場合(『帝国日本英文学』のような場合)、その「と」が齎す効果は無味乾燥な客観性である。多くの著書や論文のタイトルが「と」を好むのも、当然といえよう。
 では、「の」はどうだろう。「の」には様々な用法があるが、さしずめgoo辞書で示すなら「(格助)(1)連体修飾語を作る。(ア)後続する名詞との所有・所在・所属・行為者などの関係を表す。」という最も一般的な用法が『帝国日本の英文学』の事例に該当するだろう。つまり「帝国日本」と「英文学」は、「の」の導入によって「所有・所在・所属・行為者などの関係」に縛られていることになる。「と」の場合とは異なり、「英文学」という本来舶来の制度は、ここにおいて傍観できる存在ではなくなる。加えて、「の」という朱に染まった界面において、「英文学」が、今も我々が所属する「日本人」というカテゴリーと負の連続性を有する「帝国日本」と分かち難く結合する瞬間、著者と同じく「日本人」というカテゴリーに縛られる我々読者も「の」の引力に引き寄せられていく、という更なる余剰をも認めなければならない。日の丸がアスキーアート的に文字によって構成され、かつ日の丸の最も印象的な赤の部分を成すのが「の」である、という事実に気付くとき、著者―帝国日本―英文学の三項に読者という項が瞬時にして加えられ、読者=我々は著者の用意する記号論的四角形のなかに囲い込まれる。「言語の牢獄」ならぬ、「英文学の牢獄」、あるいはより広い読者を想定するなら「日本人」という牢獄が、「の」を触媒として我々の眼前に生成するのである。
 しかし、しばしば表紙やタイトルは、中身を保証しない。羊頭狗肉よろしく、タイトルや目次、果ては中身を見てまでして本を買っても、外れるときは外れる。だから、『帝国日本の英文学』の表紙に看過するにはあまりにも重大な予告編を見出したとしても、中身に落胆するという危険がないわけではない。もっとも、本書に限れば、そうした危惧も読後には杞憂に帰する。なぜなら、決して本書の著者は「の」に込められた説明責任/応答責任を最後まで裏切らないからである。
 序章において、著者はすでに相当数の日本における英文学とその受容についての先行研究、すなわち<英文学>研究が積み上げられている点に敬意を払いながら、脱亜入欧の手段としての英文学が帝国日本という文脈において「ブーメランのようにはね返ってくる」さまを記述し、かつそのブーメランがそれを批判する著者の拠って立つ現在の英文学にも等しくはね返ってくることを自覚しつつ英文学の可能性について論じる、と宣言する。「の」の磁場は、こうして帝国日本に根付いた英文学の脱構築と<英文学>という位置を得ることで論じることが可能となる英文学の持続可能性という2つのベクトルを与えられる。
 第1章は欧米列強と対等の位置まで上り詰めようという日本人の気概が刻印された "The Rising Generation"、すなわち『英語青年』草創期において、欧米の日本に対する政治的圧力を意識する論客が多い中、決然と「非政治的で禁欲的な研究態度」を主張し、「観察者的立場を獲得する必要性を説いた」市河三喜に焦点を当てる。著者は、市河が19歳の時分にアメリカ人動物学者と済州島へ調査旅行したときの擬似文化誌的記録「済州島紀行」に注目し、日本人/朝鮮人の間の見る/見られるの関係と日本人/アメリカ人の間のアシスタント/調査者の関係にアンビヴァレンスを見出す。もちろん、これは市河が英語/英文学者として出発する前の若気の至りの記録でもあるので、端的に後の「観察者」市河との関連はない。ただし、市河が同紀行中、『ロビンソン・クルーソー』に度々言及し、自らをロビンソンへと自己成型する過程を記している点において、この帝国日本のアンビヴァレンスを記した紀行文は帝国日本における英文学の立場をも如実に炙りだすことになる。つまり噛み砕けば、対朝鮮人や対米国人との関係に刻印される日本人青年市河の心的アンビヴァレンスは、ロビンソン・クルーソーという当時の日本にとっての英国植民者のイコンと自己同一化を図ることで解消を期待されるものであった、ということになる。しかし、市河は同紀行文の英文ダイジェスト版を出版する際、帝国日本のアンビヴァレンスの起伏をロビンソンに対する完全な自己同一化によって地ならし、隠蔽してしまう。帝国日本と英文学のダイナミズムはここにはない。故に市河は、アンビヴァレンスを伴う帝国日本の政治と手を切ることで皮肉にも帝国日本と共犯関係を結んでしまう観察者市河へと通り一遍電車道的に自己成型してしまった、と断定してしまいたくなる。しかし、著者は非政治的な観察者へと自己成型したはずの市河がアンビヴァレンスをありのまま記述した「済州島紀行」を繰り返し出版していた事実を読者に投げかける。アンビヴァレンスの隠蔽/顕示というもうひとつのアンビヴァレンス。著者は、政治を抑圧する市河の非政治性を他ならぬ市河が詳らかにするというメタ次元の政治性を感得するに至り、そのねじれを「自己の立脚点を不断に問い直すという、あらゆる学問に不可欠の営為」と明示し、タイトルの「の」の磁場を著者と読者の応答責任の界面へと昇華させていくのである。帝国日本の自家撞着を括弧に入れることでロビンソン=英文学者という自己同一性を保持する市河。しかし同時に、意識してのことか、その自己同一性がアンビヴァレントに引き裂かれているさまを自らの起源に遡行することで問い直す市河。どちらの市河をも引き受ける覚悟を、もはや無邪気な括弧入れが不可能になった現代に生きる学者に迫っているように、私には映る。
 第2章では、日露戦争勃発直後にJoseph Conradの短編「明日」から同作家の「青春」へと注解の連載を変更した『英語青年』の変節を追う。戦争を積極的に後方支援していた『英語青年』は、時局に適したテクストとして「青春」を選択していながら、そのテクストに時局を反映させる読解を拒絶する。代わりに、『英語青年』の注解は、具体的な地名が限りなく抽象化され、脱政治化されていくテクスト「青年」を、戦争のことなど意識せず、ただひたすら学生らしく西洋対東洋という抽象化されたオリエンタリズム的図式を読むことを推奨する。特に、「青年」において大英帝国の抱えていた不安を喚起する「ネメシス」(a stealthy Nemesis) は、限りなく虚実が互いに境を接する交点として書き込まれているが、注解はそこに現実の大英帝国もその鏡像としての帝国日本の姿も読み込むことを拒否している。こうして『英語青年』は、帝国日本の示す「海図」に従うと同時に当時の日本が学生に求めた「学生の本分」に合致するように、戦争の奨励と抑圧という不可能な命令を「青年」の選択と注解を通して実践していたということになる。ただし、『英語青年』は、「青年」の注解の連載が終わるや、舌の根も乾かぬうちに、日露戦争について詠んだ「ネメシス」という英詩を日英同盟に託けて取り上げる。「青年」において、読み込むことを拒絶されていた「ネメシス」の具象性は、今度は英詩「ネメシス」という具象によって政治化される。著者は、帝国日本に一方的に誘導された視座にも政治性を忘却する視座にも「学者の本分」は存在せず、こうした『英語青年』を媒介とした両者のダイナミズムを捉えることにこそ「本分」はあるのではないか、と再び自分の胸に手を当てながら内省し、また読者を政治の地平へと誘うのである。
 第3章は、R. L. Stevensonの「荷馬と乗り馬」という寓話を翻訳した岡倉由三郎が、 “Samoa” と “Kanaka” をそれぞれ「沖縄」、「琉球人」と訳した逸話を巡って、脱亜入欧と英語/英文学の関係を探る。岡倉は、記述者/植民者としての自己を立ち上げた大英帝国のレトリックをあえて日本の内的植民地への視線へと誤読することで、脱亜入欧を英文学作品の翻訳において達成している。もとより岡倉は言語学者としても、非西欧語を西欧語の下部形態として記述する西欧由来の言語学を学ぶ立場から、そのヒエラルキーを東洋において反復する旨言明している。このまま素直に取れば、「荷馬と乗り馬」の翻訳は、こうした脱亜入欧を地で行く時代風潮に則った国是の単なる反復であった、と断ずることになろう。しかし、「帝国主義者・岡倉」と単純にラベリングできない理由が、文学作品につきものの読者の存在によって生まれる。すなわち、沖縄の読者からの葉書が岡倉のもとに届くのである。著者は「荷馬と乗り馬」という<手紙>が予期しない相手に届き、しかもその相手からの<返書>までもが届いてしまうラカン的事態に、岡倉の動揺を読み取る。実のところ、この手紙は内地/沖縄の非対称な関係を記述する新しい語彙を齎してくれた岡倉に対する感謝状ですらあったわけだが、岡倉は自身の朝鮮体験に思いを巡らせながら、「沖縄」と「琉球人」という訳語に他意はない、と謝罪までしてしまう。皮肉にも<手紙>は「さかさまに」届いてしまったようだ。以後、このような「読み替え」を試みることはなかった岡倉であるが、著者の目には時勢の完全な棄却が「リスクをとらない翻訳」によって可能になったとは映らないようだ。「英文学」の内にも外にも他者がいる以上、「英文学」は他者との対話から逃れられない。そして、「英文学」が抱えるリスクは、それが他者の記述である限り、今も継続したリスクであり続ける。
 と、ここまで帝国主義植民地主義の言説分析を巧みに応用し、毀誉褒貶相半ばする帝国日本の英文学が抱えるアンビヴァレンスを明快に提示してきた著者であるが、「日本の『闇の奥』」と題された第4章を境に、著者の論調は予断に満ちたものになる。以後の2章の読者は、第二次世界大戦へと没入していく帝国日本の「闇の奥」を目撃しながら、今度は第1〜3章までと第4章以降との間に横たわるアンビヴァレンスの只中に身を置くことになる。
 第4章では、左翼に転向し西洋中心主義の批判者として翻訳・紹介されたジイドに引き付ける形で輸入された『闇の奥』の翻訳(1940年)とその受容を追う。西洋植民地主義批判を帝国日本の植民地主義と切り離す新保守主義的な英文学界の風潮に、『闇の奥』の翻訳が絡め取られていた点を当時の資料から綿密に洗い出す著者は、他ならぬその翻訳の中に日本の植民地主義を顕在化させうる痕跡を見出す。 “the reclaimed” と “an improved specimen” が共に1930年に起きた台湾での暴動を喚起させる「恭順蛮(人)」と訳されているのである。著者は、『闇の奥』の翻訳が西洋植民地主義批判と日本の植民地支配とを接合し、帝国日本を批判した可能性に賭け、この「恭順蛮人」という言葉が当時の日本においてどれほど流通し、どれほど台湾その他に対する植民地支配を喚起させるのか、膨大な一次資料を基に探ろうと試みる。しかし、この演繹法はうまくはいかない。結局のところ、「恭順蛮人」が当時の受容過程において日本の植民地主義を顕在化させるほど強い言葉ではなかった、という苦渋の結論が導き出される。しかし、「恭順蛮人」が植民地支配という「日本の闇」と全く無関係な言葉だったというわけでもない。その<手紙>が当時の読者にどのように届いたかどうかは定かではないが、その内容に当時は抑圧されていた植民地主義的な含意が秘められていることは明らかである。しかし著者は、現在の価値観から安易に「恭順蛮人」に差別的な匂いを嗅ぎつけることなく、当時の文脈における流通にこだわる。その著者の真摯さは、『闇の奥』を本書の読者へと思いがけず届けることになる。政治的に中立な翻訳などあり得ない。そうした翻訳もまた政治的であるからだ。「決して不可能ではない」翻訳の政治性を炙り出す試みを「少なくともやってみる価値はある」と断言する著者は、その過去への遡及を「私たち自身も、翻訳者として、力をもった言葉を危機的状況に送り出す方法を学び、実践するため」と位置づけて、本章を閉じる。
 第5章に至り、日本の「闇の奥」は太平洋戦争という漆黒の内奥へと深化する。ここでの分析も、第4章と同じく、西洋植民地主義批判を利用して大東亜共栄圏構想を後方支援すると共に、当の帝国日本の植民地主義に対しては無関心を装う英文学の捩れた状況を下敷きとしている。しかし、このような状況にあっても、英米圏の著作を翻訳・紹介する作業には、必ず時代の政治状況が付きまとう。本章で著者は、晩年のR. L. Stevensonを主人公に据えた中島敦の小説『光と風と夢』の受容過程に穿たれた亀裂を読み解かんと試みる。白人であるStevensonその人が白人の植民地主義を糾弾する、という内容の『光と風と夢』は、『文学界』にPaul Valery特集と共に掲載されることで、Valery作品に付与された「日本人に対してヨーロッパの終焉と枢軸国の勝利を言祝ぐために書かれたテクスト」という時局的な予断と共に受容されることを期待されていた。ここにおいて、『光と風と夢』は「戦争遂行を側面支援する時局的小説」である、という前提が成り立つ。しかし、そうした断定的な解釈は、同作品に「反時局性」を嗅ぎ取る読者の存在可能性によって揺るがされる。当時、枢軸国の同盟関係を背景としたドイツ文学・思想受容のバブル期にあったにもかかわらず、『光と風と夢』が明らかにドイツ批判の内容を含んでいた、というのがまず第一点。読者による受容の段階でこのドイツ批判に奇怪さを覚えた、という決定的な証拠を著者は見つけることができないが、少なくともこのテクストが時局/反時局の捩れを刻印していることは間違いなさそうだ。そして、より力点を置いた第二点目は、主人公スティーヴンソンと作者中島敦との間のブレが、西洋植民地主義批判と日本の植民地主義批判とを癒着させてしまう可能性である。もちろん、すでに物語論を経過した我々の経験から、三人称の語りと一人称の語りを交互に組み合わせた『光と風と夢』が、客観的な距離を確保された三人称とテクストと作者の距離を接近させてしまう一人称とを切り離す構造を持っている、と上から物申すこともできる。しかし、問題なのは当時の文脈である。著者によれば、当時すでに「三人称」が客観的な視点で「一人称」が主観的な視点である、ということは喧しく論じられていたのであるが、どうやら当時の『光と風と夢』の読者は、Stevensonと同じく南洋に向かった中島の自伝的情報を作品の読解に流用し、「三人称」に「一人称」を優先させ、限りなく私小説に近い形で受容していたようである。とすれば、西洋植民地主義批判を一手に担うスティーヴンソンは、作者中島と見分けがつかなくなる。残念ながら、同書の受容の過程において、この西洋人の主人公と中島との互換性が、日本の植民地主義批判という形で「ブーメランのようにはね返ってくる」可能性を担保するところまで著者の分析は至っていない。著者の申告によれば、これは「仮説にすぎない」。しかし、『光と風と夢』というテクストに、西洋植民地主義批判が帝国日本へと「ブーメランのようにはね返ってくる」可能性が埋め込まれているのであれば、我々がそのように読めばいい。大政翼賛体制下、たとえ気付いたとしても中島の「可能性の中心」を読む試みは困難だったに違いないし、読まなかったとしても彼らを責めることはできない。だが、言論の自由の時代に生きる我々が中島のそれを読まないのであれば、今も学会を平気で跋扈する「多数派の非政治性という政治的姿勢」を公然と認め、いつの間にやら新たなる翼賛体制を再生産する、ということにもなりかねない。しかしとにもかくにも私には、著者の綿密な実証作業とその頓挫が、過去の受容過程を追うことの困難さと共に英文学の可能性の中心を受容することの困難をも物語っているように思えてならない。失敗の弁は、ときに成功の弁よりも雄弁である。
 以上の全5章から成る各論のあと、終章にて「私小説」ならぬ「私批評」の可能性が開陳される。以下、単なる感想を述べてみたい。
 印象批評という過去に対する負い目か、これまで文学批評は過度に「私」を遠ざけてきた。構造主義からポスト構造主義に至るまで、その批評史は「私」を破壊する歴史だった、ともいえる。しかし、ポストコロニアル批評は新しい「私」のあり方を提示した。印象批評が揺るぎ無い「定点としての私」であったなら、ポストコロニアル批評は「変数としての私」を許容する。であるならば、批評実践の中で形を変える「変数としての私」は、対象を政治的な文脈に浸すだけではなく、予め現代の文脈に位置づけられた自己をもその文脈の中に二重に位置づける。こうした「私」と対象とのダイナミズムこそ、読者を巻き込んでいく本書が自家薬籠中の物としている批評の行為遂行性の本質、「の」の本質であろう。でなければ、私の取るに足らない「日の丸弁当」の思い出も、きっと瞼に浮かぶことはなかったに違いない。思いがけず、長い要約と感想文になった。なお、この駄文が晦渋に過ぎるというのであれば、それは偏に私の文責に帰する。その一方で、本書は極めて明快で真摯な研究書である。そして、私の無知ゆえの誤読が当然散見されるであろうことも、併せて付記しておく。