実演販売士

 読書、論文を弄る。
 迂回したカタチで大量の著書が届く。論文に直結する資料の類も読まねばならないが、併せてこういう自分が常に門外漢の立場に立つことを余儀なくされる著作を読むことで、少しでも外の世界を知ることを大事にしたいと思う。このブログは、後者の意味で私の恥を曝す有意義な経験になっている、と密かに思う。無知の知も、無知の無知よりはましだ、という点で悪くはない。
 
 

現代思想のパフォーマンス (光文社新書)

現代思想のパフォーマンス (光文社新書)

通読するのではなく、時機を捉えて各章を摘み読みする類の本だとは思うが、通読。ソシュール、バルト、フーコーレヴィ=ストロースラカン、サイードの人となりを軽く紹介したあと、彼らの思想のエッセンスを披露し、かつその思想を実演販売する。包丁がいかによく切れるか再三再四繰り返して見せることで驚異的な売り上げを誇る実演販売士マーフィー岡田のように、本書の著者たちは包丁がどうやって作られたのか、他の包丁と比較してどうなのか、といった説明をするのはもちろんのこと、躊躇なく包丁を握り素材を切り分ける実演を披露する。「使えなきゃ意味がない」というのが、本書のスタンスである。ただ間違えてはならないのは、彼らは素材を試し切りすることで包丁の切れ味を確かめはするものの、そこから料理を作りはしない、ということ。あくまでお客は包丁を買うお客のことであって、ディナーを楽しみに来るお客ではない。つまり著者たちは、理論を説明するためにパフォーマンスしているのであって、批評をするために理論を用いているわけではない、ということ。その点を踏まえた上で、かつ内田樹の論に漂う既視感を無視して眺めると、どれも楽しい論考として読める。中でもフーコーの章は白眉。初心者は読むべし。レヴィ=ストロースの章は、かなり首を傾げることが多い(内田哲学では?)。バルトの章のパフォーマンスは、看板に偽りありではないか。俗流フロイト主義的パフォーマンスになっている(ペニスに見えるのでペニスを象徴している、というような同語反復的解釈が散見される)。といった難点も、実演販売人が振るう包丁の鮮やかな切れ味にかすんでしまうので、別にさしたる問題ではない。何よりも、理論は実演して学んでいくという理念は、全くその通りだと思う。間違えながら、単純化しながら実演し、過誤を指摘されて襟を正し、再び実演していく。もっとも、理論は理論として記述する時点ですでに解釈なわけだから、正解が特にあるというわけでもない。より有意義な誤読という方向性も大いに奨励されている。人参や大根に飽きたら、レンガでも切ってみますか。右手で切るのに飽きたら、左手で切ってみますか。実演は、この意味で包丁の概念そのものを変える経験でもある。最後に、本書はコストパフォーマンスの点でも最高の切れ味を発揮していることを付け加えておく。