代表落選

 読書、その他。
 「渡る世間」よりも事件が起こらない日々を生きている私だが、今日はちょっとした事件に遭遇、というより事件を起こしてしまった。水漏れです。洗濯機の排水管を風呂場に出していなかったのがそもそもの元凶で、たちまちあたり一面水浸し、ものの見事に下の階まで達してしまった。普段、団地生活で隣人を意識することは殆どないが、改めて防水加工されていない床面を境にして上下は繋がっているのだ、という認識に至る。夕刻、菓子折りを持って謝罪に行く。やさしいご夫婦で助かった。ふんどし締めなおす。
 某地方所属馬の初GⅠ制覇が海外GⅠとか、嫁に「お前は体にいいものを食え。俺は旨いものを食う」といったという伝説を持つFWが代表落選というサプライズがあった。自分も呼ばれるんじゃないかと内心期待していたが、なにぶん心の準備だけでは不十分だったようで、やっぱり体の準備も日々心がけていないとジーコの目には留まらないのだ、と思い至る。大黒と巻のツートップで「大黒まき」。あー、スポーツ新聞がやりそうなことだ。
 
 

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

無脊椎動物を触っている感じ。つまり、背骨がない。何が問題なのか釈然としない。次はこれ、その次はこれ、とどんどん議論が続いていくが、なんでそれを論じなければならないのか、素人にはさっぱりわからない。「ですます調」が突然「である調」になって、また突然「ですます調」に戻っていく辺り、読む気を喪失させる。つまり、推敲不足なのではないか。著者の脳内連想ゲームにつき合わされている感じ。途中で放棄して、最後の数ページのまとめだけを読む。時代区分としての「近代」と方法論としての<近代>にはずれがあって、「近代」の時点で<近代>はまだ普及していなかった、という問題。それから、「ポストモダン」時代に方法としての<近代>が、つまりは「物語」が必要なのではないか、という問題。これらの問いを問いとして成立させるには、もっと多くの文献が必要なのではないだろうか。それから主として東浩樹と大塚英志の論に寄りかかっているようだが、このモダン/ポストモダンの問題を論じるにあたって、地域は限定した方がいいのでは(つまり問題が大きすぎるような気がする)。日本のオタク文化について論じるためにいろんな素材を利用するとか。なんだか、議論の焦点が定まっていないがために、いろんな素材がごっちゃになって、どうにも収集がつかない。読む人が読めば違うのだろうけど、これだけ問題設定に失敗していると、ある特定の読者しかついてこないのでは。続編があるようだけど、もっときっちりまとめて欲しい。