生=政治

快晴。洗濯、布団を干す。晩飯は困ったときのカレー。例によって作りすぎる。「何人家族やねん」と突っ込む。

 
 

生と権力の哲学 (ちくま新書)

生と権力の哲学 (ちくま新書)

 フーコーの思想を整理したうえで、彼が最終的に到達した「生=政治」の問題を前景化、かつ「生=政治」の問題を引き継ぐドゥルーズアガンベンネグリらの思想を体系的に網羅した好著。超越的な権力像の抜本的変更を迫るフーコーは、後年、パノプティコンに代表される水平的な権力のネットワークを構想した。規律訓育型の権力が遍く浸透する中で、次第に人間の言語や考え方がネットワークとして結ばれ、結果として権力は我々の生そのもの、ひいては「人間」を生み出すものへと変わっている、というのがフーコーの立論である。しばしばフーコーの権力論は、主体を言説の操り人形として貶めているとされてきたが、権力が「人間」を生み出すものである以上、主体には「人間」の変革可能性が付与されている。ただ、フーコーはその抵抗の政治の条件を「生=政治」という形で示しはしたものの、その方法論をあまり掘り下げて議論していないように見受けられる。著者はフーコーの問題設定が認識論の範疇に留まっていることを半ば認めつつも、そこに存在論的な可能性の中心を見出す論者を積極的に評価する。
 ドゥルーズは、空間の配置・関係の固定化を推進した規律訓育型の権力と空間の開放・関係の流動化を是とする管理=コントロール型の権力とを区別する。後者の権力の世の中には、いっさいの外部が存在しない。両者の間には拭い難い認識論的断絶が横たわっているのである。さらに、ドゥルーズは、そうした認識論的条件をもとに、存在論的問題にも手をつける。「人間」という主体のあり方は、完全に世の中に行き渡り、再生産され続け、その外部はないように見える。しかし、最後期のフーコーを読むドゥルーズは、自己に着目することでがんじがらめの主体を乗り越えようとする。「人間」の生産は、「人間」=主体同士を結び付けていくだけではなく、それぞれの「人間」の内部に自己を生み出す。ドゥルーズは、「人間」と分かち難く結びついた主体に依拠して思考しても出口はないと考え、その主体の基盤となる自己、それ以前の権力形態とは異なり生=政治が手を伸ばしてくる自己のあり方を問うのである。外部なき生=権力の外部を探すのではなく、それが生み出す内部を問い直す、というのがドゥルーズの目指した方向のようだ。この辺は、最近の身体論や自己の再想像の議論とかなり親和性が高いように思う。
 ジョルジョ・アガンベンの議論ははっきりいって初見。アガンベンは、公的な生としての「ビオス」が、私的な生としての「ゾーエ」を例外として排除することで成立していたギリシャ時代まで生=政治の始まりを遡る。生=政治は、まずもって私的な領域を排除すると共に公的な生の中に内包する力学のもとに作動するのである。従って、公的な領域を超越的な「法」の力によって復興させるアレントのような立場は、生=政治が私的な領域をも政治化する点を見失ってしまう。その一方で、フーコーもまた「法」的なものの価値下落を肯定し、個々の生に分析を集約してしまう点で<片手落ち>の謗りを免れ得ない。アガンベンにとって、生=政治とは、個人を超越的なレベルで繋縛する公的な生と、個々人が超越論的なレベルで並列した複数の私的な生とを切り結ぶ地点に立ち現れるものである。そして、アガンベン流の生=政治を最も効果的に体現している場が「収容所」となる。あらゆるものが不分明となるこの場について、責任―免責の軸をもって語ることはできない。それは免責という例外をもつ責任の領域を離れた「無―責任」の領域に属する。アガンベンは、主体の証言が何者かの代理となる可能性を棄却する。主体の証言には「証言しえないもの」、つまりは自己の声、私的な生が常に含まれる。こうして、主体は公的な領域において機能するものであると同時に、公的な領域に還元できない私的な領域における自己を不完全なまま曝す「恥辱」を抱えることとなる。それから法の問題。法の根拠は法によって問うことはできない。法は「法外」なものによって支えられている。アガンベンによれば、その「法外」なものこそ自己が存在する地点である。法維持暴力と法措定暴力(神話的暴力)、そして法の力を脱措定する神的暴力というベンヤミンの『暴力批判論』における3つの法を巡る暴力を手がかりとして、アガンベンは「法」と「法外」とが交錯する神的暴力に法の力を逃れる生命の痕跡を見取る。一方のデリダはこの神的暴力に、ベンヤミンアウシュビッツに対するメシア的な罪の浄化(人間にはどうにもならないのだからしょうがない)の意識をみやり、それがナチスの最終解決と共犯関係を結んでいる、と厳しく糾弾している。しかし、「法外」なものを歴史の審級にではなく、自己の審級に見出したアガンベンフーコー的なベンヤミン解釈は、公的なレベルでの脱構築を推進しようとしたデリダの正義論とは別の次元で、ベンヤミンフーコーの可能性の中心を掬い上げているように思う。デリダは生=権力が編成する「人間」の領域に留まり、アガンベンはそこから逃れる「非―人間」の領域を見出そうとしているのだろうか。証言や記憶の点から見ると、かなり面白いところをついている思想家ではないか。
 フーコーの生=政治の主体を「マルチチュード」として明示したネグリは、徹底的に生=政治の外部がないということにこだわる。生=政治的な状況とは「帝国」という外部なき中心なき新しい主権形態のことであり、その世界で立ち上げられる主体とは「マルチチュード」のことである。以下、省略。しかし、「関係がある」という意味で公的な領域同士が繋がっているというのならわかるが、全てが「帝国」という単一原理の公的領域に包摂されている、というのはとても信じ難い。いや、理論的には分かるんですけど、複雑な状況を結局「帝国」という言葉に還元してしまうような気が。「トラウマ」みたいな感じで。国民国家も主権形態として弱まったとはいえまだまだ健在で、それどころか強まる傾向すらあるのだから、個人的には、国民国家と「帝国」との関係を捉える必要があると思う。その意味では、帝国主義的な現状を認めた『マルチチュード』の理論的後退はいい傾向だと思う。とはいえ、フーコーの生=政治を幾分具体化し、生=政治時代の主体を「マルチチュード」と名指した点では、今後の議論の可能性を大いに切り開いたといえるのでしょう。
 著者はこの本を書くために3年の月日を費やしたという。粗製濫造ものが多い新書市場にあって、大変な良書だと思う。後期フーコーの入門書とのことだが、いやいや随分刺激的でした。中でもアガンベンは面白そう。中山元フーコー入門』とは焦点の当て方が全然違うから、見えてくる景色も全然違う。改めてフーコーって幅が広いのだな、とその途方も無さに思わず体育座り。