空っぽのミサイル

 雨。読書、その他。晩はイカとサーディーン(というとなんだかかっこいいが、なんのことないただの「いわし」です)のパスタ。
 
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 北朝鮮がまたミサイルを撃った模様。昨日、というか正確には今日のW杯中継で、やたらこの情報が枠いっぱいに映し出されていてかなり邪魔だった。なんか14型ぐらいのテレビで見ているみたいで、そういう情報は教育テレビに回せ、と小さな声で叫んだものだ(もちろん心の中で)。しかし、冷静に考えてみると、このニュース、サッカーどころではない。あまり実験の匂いがしないところが恐ろしい。7発(諸説あるようだが)を撃ちまくったというではないか。それも全部日本海に落下。実験なのであれば、日本列島を越えて、少なくとも太平洋のど真ん中ぐらいには撃ち込まないと意味がない。これは実験などではなく、どう見てもやけくそである。タバコを一日3箱吸う末期がん患者である。
 北朝鮮の意図の解釈としては、ディスカヴァリーの打ち上げにバッティングさせるべく待って発射した、あるいは7月4日の独立記念日に合わせて発射した、というような辺りがだいたい信憑性のあるところだろう。しかし相変わらず北朝鮮は、示威行動というお決まりの形式の「中身」を説明してはくれない。単にミサイルの道具性(自衛手段)に言及するのみである。事情に明るい政治学者や政府の高官たちは、その得体の知れない中身をひたすら憶測をもって補完し続ける。不毛である。しかし、そもそも「中身」なんてないのではないだろうか。つまり、ミサイルを発射する意図なんてものは初めから存在しないのではないだろうか。兵器としてはあまりにおそまつな北朝鮮のミサイルがこれまで政治的な戦略として機能してきたのは、その兵器としての意味の空っぽさ加減と見事に対応した政治的意図の空虚さにあるのではないだろうか。中身が空っぽであればあるほど、無数の解釈を呼び込むことができる。そして、解釈の是非ではなく、解釈の継続性により、ミサイルは政治性を獲得していく。だとすれば、北朝鮮のミサイルに政治的な意味を補完し続ける行為は、北朝鮮の非政治的な政治戦略にまんまと乗っかり続けることに他ならない。政治的な意味を繰り返し補完されたミサイルは、いずれ政治的なコンテクストすら運んでくることになる。空虚なミサイルが、政治的なテクストとして機能し、もともと存在すらしなかった政治的コンテクストを立ち上げてしまったとしたら、真に罪深きはミサイルの「作者」ではなく、その「読者」かもしれない。この場合の「正しい読者」は、解釈を拒否するという読者の本分を全うしない異端者こそが相応しいのかもしれない。*1 というわけで、私は上空をミサイルが飛び交おうと、無視を決め込んで、サッカーに没入することにする。なんだただの言い訳かよ。

*1:ミサイルというテクストの「中身」を問うのではなく、ミサイルをある種の出版物のようなものとして考えて、即物的に発禁処分にすればよい。「中身」が正しいとか間違っているとかいうのではなく、それを世に出すこと自体が法に触れるのだという論法である。つまり、政治的にではなく、法的に処理するのが正しい対処法だと思う。もちろん、政治と法とが互いに境を接しているというのは当たり前の話だが、この問題に関しては意図的に切り離した方が無難ではないだろうか。具体的には、ミサイルの発射に対する解釈が必然的に結びつけることになる六者会談という国際政治のレベルではなく、ミサイルの実験を制限する国際法のレベルで考えた方がいいのでは、ということ。結論的にはごく当たり前ですね。